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赤穂義士 間十次郎光興の一部始終

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間喜兵衛の嫡男で二十六歳 凶変の起こったときは二十四歳で、まだ部屋住みであったが知らせを受け父親と共に登城して最初から義盟に加わります。九月七日、主君の仇を討つために千馬三郎兵衛矢頭右衛門七とともに江戸に下っています。

家紋です
家紋三階松
銘板です
十次郎銘板
家系図です
家系図

十次郎の特筆事項

間十次郎の画像です討ち入りの時

仇敵発見の功労者!
台所近くの炭部屋に踏み込むと、奧に誰か居る気配なので槍をつけた。うめき声がしたので武林唯七が一刀を浴びせて討ちとめた。引きずりだして見ると白綸子の下着を着ている。これは普通の人ではないと、灯りで照らして見ると背中にうすく傷跡がある。これこそ吉良上野介であろうというので呼び子の笛を吹いて一同を集め、大石内蔵助が止めをさしています。そのあと第一発見者として首級をあげ、泉岳寺では一番に焼香する栄に浴しています。

江戸での生活

当時の様子を赤穂の渡辺半右衛門に書き送った手紙(十一月五日付)から知ることができる「(前略)私共居候処は麹町新五丁目にて候。(略)同名喜齋儀も道中無事に先月十七日爰元へ致着申候。大食いたし被申笑申事にて御座候。御気遣被下間舗候。私共家は表口壱間半に裏へ七間ほど御座候家にて御座候。畳は十二畳ほどしけ申候。千馬三郎、同名喜齋、私、弟四人居申候。先月廿三日迄は中田藤内居申候か、俄に故郷恋しく罷成候哉廿三日之晩、爰元に林小左衛門と申仁御座候、藤内一家の者之由、是へ参候とて出申候か、廿四日の朝、小左方より発足上京申候。扨々にくきやつにて御座候。(略)爰元の様子もいまだいつとても知不申候、然共当月中には善悪知可申候(下略)」

教養について

文武に秀でる 剣は堀内源左衛門正春(真心影流)門下で堀部安兵衛奥田孫太夫と並ぶ達人。槍術を水沼久太夫に学び山鹿流兵学を学んでいる。

十次郎の出自と経歴など

生年 延宝六年(1678) 家系 本姓 ・ 藤原氏
没年 元禄十六年二月四日 出身地 播州赤穂
享年 二十六歳 間喜兵衛光延
戒名 刃沢蔵剣信士 名不詳 ・ 赤穂在住
禄高 無禄 兄弟 姉 中堂又助妻(秋元但馬守家臣)
実弟 間新六
妹 母と共に赤穂在住
役職 部屋住み
(中小姓・広間番説あり)
親戚 甥 中堂清十郎(又助の子)
屋敷 江戸藩邸 変名 杣庄伴七郎 ・ 矢間重太郎光興(仮名手本)
幼名 不詳 仮寓所 江戸新麹町四丁目七郎右衛門店で千馬三郎兵衛と同居
性格 不詳 討入守備 表門隊警備 吉良邸討入り時の詳細
政次 二尺五寸程
脇差 吉光二尺
お預け所 三河岡崎藩水野監物忠之 赤穂四十六士の切腹
雅号 如柳(じょりゅう) 切腹場所 三河岡崎藩水野監物忠之中屋敷
妻子 独身 介錯人 青山武助
遺言 「剣の同門である細井広沢に鉄帽を贈りたい」
辞世の句 「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」(赤城士話)
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

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