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赤穂義士 堀部弥兵衛金丸の一部始終

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ほりべやへえ かなまる(あきざね)赤穂義士のトップページに戻る

最高齢の七十七歳 で討ち入りに加わる。江戸に在り堀部安兵衛らと終始一貫、仇討ちを強硬に主張したが大石内蔵助の説得で隠忍自重して本懐を遂げる。歴史に仮は禁物だが血気にはやり決起していたら、仮名手本忠臣蔵も元禄赤穂事件もなかった。

堀部弥兵衛の家紋です
重ね四ツ目結び
堀部弥兵衛の銘板です
市内の金丸の銘板
堀部弥兵衛の家系図です
家系図

弥兵衛の特筆事項

堀部弥兵衛の画像です突入時刻を進言 午前四時

堀部安兵衛金丸私記によれば、古来より兵法「暁の奇襲」を最良の策とする「取懸之刻限者、於ニ此度者別而古法之通、寅之一天可然存候」と大石内蔵助に進言している。
(註)「寅の一天」とは払暁のことで午前四時。

辞世句

「雪晴れて 思ひを遂ぐる あした朝哉」
「品もなく活き過ぎたりと思ひしに今かちえたり老いの楽しみ」(忠誠後鑑録)

遺言 もっと酒を飲め

世話役の堀内伝右衛門に「拙者の縁者堀部甚之丞と申す者が肥後熊本にいるから参勤交代で下向の砌(みぎり)、お会いの節はもっと酒を飲むようにご伝言願いたい」

妻子 細川家で300石

わか
福井松平家家老本多孫太郎家臣、忠見扶右衛門の妹。切腹後三十五日が過ぎて「わか」は本多孫太郎家中にいる実兄忠見沢右衛門方へ引き取られる。後日、二本松城主丹波若狭守の隠居涼台院に「高島」との呼び名で奉公することになり、安兵衛の妻や文五郎と共に移り住むことになる。
実子 弥一兵衛
十五歳の時、男色関係がもとで親族の本多喜平次に殺される。(弥平太説あり)
養子 文五郎
安兵衛の入籍前に養子にしたが幼少であること、妻の血筋である事が理由で後継の許可が下りなかった。のちに文五郎は弥七(忠兵衛言真)と改名して安兵衛の後を継ぎ、三百石で熊本の細川家に召し抱えられる
養子 堀部安兵衛
実娘 ほり
安兵衛の妻であった「ほり」は文五郎のもとで静かに身を守り享保元年八月六日に四十歳で没した。墓所は東京芝青松寺、戒名は「青雲院香山正桂大姉」 諸書にある名の「幸」は誤りだと斎藤茂先生が指摘されています。

弥兵衛の出自と経歴など

生年 寛永四年(1627) 家系 本姓 ・ 清和源氏(祖父の堀部助左衛門が浅野長重に仕官して以来の浅野家家臣)
没年 元禄十六年二月四日 出身地 常陸国笠間
享年 七十七歳(最年長) 堀部弥兵衛勝綱 寛永六年(1629)没
戒名 刃毛知剣信士 不明 親類書には六十年以前病死とある
禄高 元三百石 ・ 隠居料 五十石 兄弟 姉 二人 名不明
役職 元江戸留守居番 親戚 甥 堀部甚之丞(細川越中守家臣)
甥 堀部庄兵衛(細川越中守家臣)
甥 青地与五兵衛(紀州安藤帯刀家臣)
屋敷 江戸藩邸 変名 馬淵市郎右衛門 ・ 織部弥次兵衛金丸(仮名手本)
幼名 不詳 仮寓所 江戸両国米沢町
性格 義を好み文武の道を志し兵法に通じた文武両道の人 討入守備 表門隊守備 吉良邸討入り時の詳細
無銘 三尺程之有
脇差 無之 長刀持
お預け所 肥後熊本藩細川越中守綱利 赤穂四十六士の切腹
雅号 象平 切腹場所 肥後熊本藩細川越中守綱利下屋敷
妻子 上に記載 介錯人 米良市右衛門
遺言 上に記載 辞世句 上に記載
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼亮
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼定 不参加 萱野重實

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