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赤穂義士 堀部安兵衛武庸の一部始終

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生後まもなく母親と死別 父親も長い浪人暮らしの中、高田馬場での助太刀で一躍注目を集める存在になる。堀部家の婿養子として幸せを得て間もなくの凶変勃発、不運な短命に涙する。

堀部武庸の家紋です
重ね四つ目結び
堀部武庸の銘板です
赤穂市内の銘板
堀部武庸の家系図です
堀部家系図

安兵衛の特筆事項

家系について中山安兵衛の家系図です

外祖母

本性源氏で外祖母は越後新発田藩五万石城主溝口伯耆守秀勝の五女(寛文十二年十月十二日没 秋香院殿 宝光寺)

外祖父

溝口一族の溝口四郎兵衛盛政で越後新発田藩で組頭を務め七百石を食む名門の家柄(貞享二年八月一日没 宝光寺)

実父

中山弥次右衛門は二代藩主溝口宣勝の家臣で二百石を給わり越後新発田で馬廻りを務めていたが後、浪人する。浪人になった原因については諸説があり、安兵衛が何歳の時だったのかも含め分かっていない。天和三年五月二十五日没 戒名は休誓 長徳寺。(養父は下に記載)

実母

溝口四郎兵衛の六女であったが安兵衛を生んで間もなく病死したため、二人の姉と安兵衛が三歳になるまで祖母にあたる城主秀勝五女の手許に引き取られたが、祖母が病死したために父の許に帰っている。寛文十年五月二十五日没 宝樹院妙厳信女 法華寺。(養母は下に記載)
高田の馬場の決闘 一躍時の人に
  • 元禄七年二月七日伊予西条三万石松平左京太夫の家来で馬廻役の菅野六郎左衛門は同藩士村上庄左衛門と支配頭の家で争いになる。
  • 村上庄左衛門は二月十一日の巳の下刻(午前十時)に高田馬場での果たし合いを申し送り、弟の三郎右衛門、中津川祐見のほか家来五人の計八人で待ち受ける。
  • 果たし合いを受けた菅野六郎左衛門は若党角田佐次兵衛と草履取りの三人で家を出る。
  • 安兵衛と菅野は共に剣客堀内源左衛門に師事し、叔父甥の義を結び親密にしていたこともあり、菅野は出発に際し後事を安兵衛に依頼する旨、妻を介して伝えた。それを聞いた安兵衛は急ぎ高田馬場に駆けつけて参戦し、中津川祐見と村上三郎右衛門を討ちとった。
  • 角田佐次兵衛に左腕を切り落とされた村上庄右衛門を菅野六郎左衛門が止めを刺して決着するが、深手を負った菅野六郎左衛門は帰る途中、疵の痛みに耐えかねて自殺する。
  • この事件で中山安兵衛の名は一朝にして挙がり知れ渡ることになる。時に安兵衛二十五歳であった。またこの時の実戦経験がのちの仇討ち「赤穂浪士事件」で悲願成就の一因になったと評価する先生は多い
堀部安兵衛の画像です堀部家の養子に

堀部弥兵衛惚れる! 高田の馬場事件で一躍ときの人になった安兵衛を養子に迎えたいとしたのが堀部弥兵衛金丸だった。安兵衛は「拙者は中山家の嫡子、折角のご所望ながらこの義は御免を蒙りたい」と断わると、弥兵衛は中山姓のままで結構と応じ、主君に跡目相続を願い出たところ聞き届けられた。この誠意に感激した安兵衛は元禄十年二十八歳の時に中山姓を捨て堀部姓を継ぎ、赤穂浅野家に二百石の馬廻役で仕えることになる。
妻の「ほり」 安兵衛の切腹後、兄弟(養子)文五郎のもとで静かに身を守り享保元年八月六日に四十歳で没した。墓所は東京芝青松寺、戒名は「青雲院香山正桂大姉」で諸書にある名の「幸」は誤りだと斎藤茂先生が指摘されています。

討ち入り迄の紆余曲折

仇討ち一途の急進派 江戸城松の廊下での刃傷事件で再び浪人となった安兵衛は奥田孫太夫、高田郡兵衛とともに赤穂に赴き「一同籠城の覚悟ならば城を枕にしよう」と、四月五日江戸を出発する。十四日夜に赤穂に着いたが既に開城に決した事を聞いた三人は大石内蔵助の元へおしかけ籠城を強硬に主張するがついに内蔵助の説得に応じ江戸に帰り時期を待つことになる。「臣下の身として当の敵を見逃しては武士の道が相たたぬ」と早期の仇討ちを主張し続けるが、お家の再興を第一義とする内蔵助は吉田忠左衛門近松勘六原惣右衛門中村勘助大高源五らを江戸に派遣したり再三にわたる書簡での説得など安兵衛ら急進派の鎮撫に大変な苦労をしている。伏見撞木町での放蕩の時期と一致するのは偶然なのか。そうこうするうちに七月十八日、浅野大学長廣の宗家広島への差し置きが決まりお家再興の道が断たれた結果、七月二十八日の京都円山会議で復讐を一決して以後、吉良討ち入りへ突き進むことになる。

討ち入りの時 野太刀で奮戦

大刀に二尺七、八寸の樫の木柄をつけ、いわゆる野太刀づくりにしてこれを車輪のように振るって奮戦している。剣士で世話役の羽賀清太夫も伝授を受けたと覚書に出ている。また高田馬場での体験から安兵衛の助言で四十七士の討ち入り装束に鎖や針金を加えたことが討ち入り成功の一要因と評する人もいる。

略歴 波乱の生涯
  • 天和三年五月二十五日(1683)に父が亡くなり叔父、溝口三郎兵衛(後の上田宗実)に引取られる。
  • その後上田家を出て北蒲原の水原、中蒲原の五泉、出雲崎に寓居し手習いの師匠をしていたと伝わる。
  • 中蒲原郡の庄瀬牛崎の姉婿長井弥五右衛門の許で世話になり上州真庭念流十三世樋口十郎左衛門将定の許で文武の修業を積む。
  • 十九歳の時(元禄元年)江戸に出る。
  • 元禄三年頃、牛込元天竜寺竹町に住み剣客堀内源左衛門に師事し念流の四天王と言われるまでになる。
  • 安兵衛二十五歳の元禄七年二月七日菅野六郎左衛門(念流の同門で西条藩士。伯父甥の義を結び親密にしていた)は同藩士村上庄左衛門と相争い高田馬場で果たし合いとなり助太刀して奮戦し、評判となる。
  • 中山安兵衛に惚れた堀部弥兵衛は婿養子にしたいと久世出雲守の家臣、中根太夫が安兵衛と懇意であることを聞き、彼を介して安兵衛と知り合い養子を申し込む。
  • 中山安兵衛は最初、断るが中山姓で可との条件に折れ、元禄十年に堀部家の養子となり堀部姓を名乗る。
  • 元禄十一年十二月十日尾張大納言友光公の内室が逝去のとき浅野家の弔い役として派遣される。

安兵衛の出自と経歴など

生年 寛文十年(1670) 家系 上に記載
没年 元禄十六年二月四日 出身地 越後新発田「新発田藩世臣譜」や中山家の菩提寺長徳寺の過去帳や墓碑等から確定
享年 三十四歳 養父 堀部弥兵衛金丸
戒名 刃雲輝剣信士 養母 わか
禄高 二百石 ・ 譜代 兄弟 姉 町田新五左衛門妻(溝口摂津守家臣)
姉 中蒲原郡の農家(長井弥五右衛門嫁)
役職 馬廻 ・ 江戸常詰使番 親戚 甥 町田卯之助(親は新五左衛門)
姪 新五左衛門娘
屋敷 江戸藩邸 変名 長江長左衛門
性格 几帳面で文筆家、のんべ安は誤りで酒はあまり飲まなかった 仮寓所 忠見扶右衛門(弥兵衛の兄)宅・両国矢倉米沢町後藤庄三郎所有の借家・江戸本所林町五丁目紀伊国屋店
幼名 安之助 討入守備 裏門隊突入 吉良邸討入り時の詳細
銘は包□ 脇差と共に尺不明 お預け所 伊予松山藩松平隠岐守定直 赤穂四十六士の切腹
雅号 不詳 切腹場所 伊予松山藩松平隠岐守定直中屋敷
ほり(堀部弥兵衛の娘) 介錯人 荒川十太夫
辞世の句 「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思えば」(忠誠後鑑録)
「忠孝に命を捨つる武士の道矢たけ心の名をや残さん」(浅野仇討記) 遺言は不詳です
元禄赤穂事件関連ページ

事件の年譜 刃傷事件・赤穂開城(その1) 山科隠棲・江戸下向(その2) 困窮生活・討ち入り(その3) 泉岳寺・切腹・遺族(その4) 事件の詳細 刃傷事件・内匠頭切腹(その1) 赤穂開城・仇討ち準備(その2) 吉良邸討入り(その3) 引き揚げ・泉岳寺(その4) 切腹・遺子の処罰(その5) 赤穂城・浅野家・吉良家 赤穂城古写真など 浅野内匠頭長矩 吉良上野介義央

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

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