前原伊助宗房(赤穂義士)

江戸の事情に精通し吉良邸の探索に貢献

まえはらいすけ むねふさ

前原伊助サムネイル

江戸定府で二代の家臣

江戸市井の事情に詳しく吉良邸の探索には欠かせない存在でした。

世才にも長けて浪人するとすぐに古着屋を開き、吉良側の情報収集を開始しますが生活は苦しく大石内蔵助の金銀請払帳には金二分の借用が記録に残っている。

前原家系図前原家家系図

前原家

  • 前原自久(浅野家家臣)
  • 名不詳(元禄十五年十一月に病没)
  • 小川彦兵衛の妻で一柳土佐守家臣、播州小野在住
  • 小川彦四郎・姪 小川彦兵衛娘・従弟 長野源兵衛(永井伊賀守家臣)

吉良邸を探索

家紋:いちじく前原家家紋

石板:赤穂市内
前原伊助の石板

大いに貢献する

浪人直後から吉良邸に程近い日本橋富沢町で古着屋を開業する。昨日まで武士であった者が商売を始めたのである。よほど商才に長けていないとできるものではなく、それだけ復讐の念が強かったともいえるのでは。

神文も大高源吾より早かったことが源吾から堀部安兵衛宛の書状で分かっています。吉良上野介が八月に屋敷替えを命じられ本所に移ったときには店を吉良邸裏門そばの本所相生町に移し、呉服店を開き探索する。

のち、神崎与五郎が麻布谷町で開いていた店(米穀商)と合同して探索を続け情報の収集に大いに貢献した。

討ち入り姿討ち入り姿

討入直前に病気

生活苦にあえぐ

討入り前に病気になったとみえて金銀受払帳に「一金二分、前原伊助相煩候に付服用之人参一両代礒貝十郎左衛門へ渡す」とある。

赤城盟伝を著す

復讐の大義を説く

江戸城刃傷事件から赤穂の国難、義挙への推移、不義家臣のことなどを漢文で綴つていて、神崎与五郎の註、木村岡右衛門が跋を書いています。

本書は元禄十五年(1702)に東武本所で成り、構成は前原伊助の「国難始末」と神崎与五郎の「絶纓自解」とを併せたもので偵察の合間をぬって著し実に吉良邸討ち入りの1か月前で終わっています。

辞世の句・遺言ともに不詳

前原伊助の詩
[春来ぬとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪](鐘秀記)
[降り積もる雪に見ぬ世の恋しさに筆墨のあと思ひ染めける](赤城義臣伝)(鐘秀記)
前原伊助備忘録
生年
  • 寛文四年(1664)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 四十歳
戒名
  • 刃補天剣信士
幼名
  • 不詳
家系
  • ト部氏
出身
  • 不詳・武蔵国江戸説あり
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 中小姓・金奉行(江戸定府)
禄高
  • 十石三人扶持・二代
妻子
  • 不詳
雅号
  • 不詳
変名
  • 米屋五兵衛・古着屋権次郎
仮寓
  • 江戸本所相生町二丁目
  • 国宗 長不知
  • 脇差 同作 一尺八寸
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

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