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赤穂義士 間瀬久太夫正明の一部始終

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役職の大目付 が示すように厳格で真面目な性格は多くの藩士から信頼を得ていました。討ち入りには長男の孫九郎と共に加わり本懐を遂げています。また、次男の左太八は伊豆大島に遠島となり同地で病死。一家の非運には言葉がありません。

間瀬正明の家紋です
家紋 右三つ巴(巴説有)
間瀬正明の銘板です
赤穂市にある間瀬の銘板
間瀬正明の家系図です
家系図

久太夫の特筆事項

宅跡の赤穂義士会説明板(転載)

間瀬久太夫宅地跡案内板
場所を確認

久太夫は、大石内蔵助とともに重職義士五人のうちの一人である。藩士たちの行動の理非を糾し取り締まる大目付だあったので、非常に厳格正直な人柄であったと伝えられる。小野寺十内とは従兄、中村勘助の叔父にあたり、嫡子の孫九郎とともに吉良邸に討ち入った親子組の一人である。城明け渡しのときには、内蔵助を助けて受城使との折衝にあたり、開城後もひきつづき残務整理にあたるなど内蔵助が頼みとしていた長老の一人であり、内蔵助のよき相談相手であった。
元禄十五年(1702)七月二十八日、京都丸山で会議がもたれ、討ち入り決行が決議されたが、この席上、日ごろ寡黙な久太夫が自ら進んで意見を述べ、内蔵助の決断を促したと伝えられている。
討ち入りのときには、原惣右衛門とともに内蔵助の傍らにあって司令部を構成、半弓を携え表門内を守ったという。細川家にお預けののち、本庄喜助の介錯で切腹した。 赤穂義士会

間瀬久太夫の画像です妻子について

長男は切腹、次男は病死

刈部弥次郎の娘で事件当時は播州亀山本徳寺領在住。宝永五年(1708)八月江戸にて没。法名「恵性院」
長男 間瀬孫九郎正辰 二十三歳
次男 間瀬左太八正嶺 二十歳(下に別記載)
長女 三木団右衛門の妻(元浅野家臣で竜野在住)

円山会議での発言 仇討ちを強く主張

元禄十四年七月二十八日の京都円山会議には長男の孫九郎共々出席。「頃日、堀部弥兵衛の書状を見ると、堀部もはや八十になんなんとして上方衆の永分別には余命たえがたし、一人でも吉良の館に突き入り臣たる道を潔くしたいと。拙者とても六十を余り、所詮若い方々と立ち並んで甲斐々々しい働きも出来そうもない。評議次第によっては弥兵衛老人と生死をともにしたいものでござる」と発言して吉良上野介討ち取ることを進言、仇討ちの方針が決まったと言われる。

吉良上野介の在宅を確認

念には念を入れて 宛先不詳(元禄十五年十二月十三日付)「今十三日内蔵助殿江参候用事は斎手筋に而弥明日吉良殿江客有之候段、承候得共無心許候間三平殿斎へ参相尋候様に与被申候故、直きに斎へ参候処成程客有之候得共末慥候間、明朝斎より案内次第又々其段可申入候。以上 十二月十三日 正明 花押」
(註釈)吉良屋敷で茶会があると聞き出した羽倉斎の所へ大石三平が行って確かめたが、更に念を押して明朝再度、斎から返事があるから、返事があり次第お知らせする。

次男の間瀬左太八 伊豆大島で病死する

二十歳、姫路亀山在住で元禄十六年四月九日島送りの為江戸に護送され揚屋に収監され、宝永二年(1705)四月二十七日二十二歳の時、大島で病没する。戒名は「月山祖潭(そたん)信士」大島元村(現大島町元町)下村家墓地に埋葬され墓が現存する。名前について、自筆の手紙では左太八と署名、父親の親類書は定八、兄の孫九郎の親類書は佐太八とある。義士の遺子(男子)一覧

久太夫の出自と経歴など

生年 寛永十八年(1641) 家系 本姓 ・ 紀氏
父方祖父三橋長右衛門は本多豊後守に仕えていた
没年 元禄十六年二月四日 出身地 常陸国笠間(現笠間市) ・ 不詳説あり
享年 六十三歳 間瀬権太夫 浅野采女正家臣で山鹿素行に私淑した人
戒名 刃誉道剣信士 多川九左衛門の娘(浅野家家臣)
禄高 二百石 役料五十石 (十石説あり) ・ 二代 兄弟 姉 名不詳
役職 目付 親戚
  • 姪 中村勘助の妻 奥州白川在住
  • 姪 甲斐喜太夫妻 播州亀山在住
  • 従弟 小野寺十内(母の姉が小野寺又八の妻)
  • 従弟女 大高源五の母 播州赤穂在住
屋敷 赤穂城三の丸 変名 三橋浄貞 ・ 三橋三慎
幼名 不詳 仮寓所 江戸新麹町四丁目和泉屋五郎兵衛店
性格 厳格で真面目。藩士の信頼大 討入守備 表門隊参謀(半弓を武器にする) 吉良邸討入り時の詳細
道尊二尺一寸・脇差善綱二尺 お預け所 肥後熊本藩細川越中守綱利 赤穂四十六士の切腹
雅号 不詳 切腹場所 肥後熊本藩細川越中守綱利下屋敷
介錯人 本庄喜助 辞世句 「雪とけて 心に叶う あした哉」
遺言 「お腹をこわしているので切腹に臨み粗相があってはと心配している」 接待役の堀内勝重に挨拶して切腹の座に着いた。
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼亮
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼定 不参加 萱野重實

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