杉野十平次次房(赤穂義士)

生まれた年に母を十歳で父と死別

すぎのじゅうへいじ つぎふさ

杉野十平次サムネイル

母親の実家は裕福だった

八両三人扶持の杉野十平次に対し 母親の実家、萩原家は伯父の萩原兵助が百五十石、同儀左衛門は百石と裕福でしたが開城時に不始末がありこれを恥じて義絶。

江戸では私財を投じて仲間を助け本懐を遂げています。

親兄弟と裕福な伯父

杉野家系図杉野家家系図

家紋:かりがね杉野家家紋

石板:赤穂市内杉野十平次の石板

伯父一族と義絶


生まれた歳に母を亡くし十歳で父と死別している。浅野内匠頭に仕えて近習に列し八両三人扶持を得る。

元禄七年の松山城請け取りの時は一行に加わり、同十三年には主君の参勤に従って出府し凶変に遭う。彼自身は微禄であったが母方の萩原家は裕福であった。

  • 杉野平左衛門(浅野内匠頭家来で十歳で死別)
  • 萩原新左衛門の娘(生まれた歳に死別)
兄弟
  • 兄 平左衛門
  • 兄 萩原三右衛門(元赤穂浅野藩士後浪人)
  • 兄 萩原平七(元赤穂浅野藩士後浪人)
親戚
  • 萩原兵助(伯父で元赤穂浅野内匠頭家臣百五十石
  • 萩原儀左衛門(伯父で元赤穂浅野内匠頭家臣百石

赤穂開城の時、母方の叔父達が先祖伝来の大筒を受城使の脇坂淡路守に売り払って藩中の怒りを買い、この事で次房は萩原一族と義絶する。

討ち入り姿杉野十平次討ち入り姿

江戸での出来事

剣術の使い手として知られ江戸では剣術道場を構え会合の場所にも使われた。

赤穂浪士の中では比較的裕福で赤穂退去時に家財道具を売り払って千両近くを所持していたが、同志のために惜しげもなく資金を提供したことで知られる。

大屋に遺書を残す

討入り当夜に遺書を書く

[長十郎殿 拙者共義、亡主内匠頭憤心散じ可申ため今晩可遂本意存立候。

先頃より緩々と致借宅、過分之至に御座候。以参謁右之御礼申入度存候得共、此節之義、態々差控、無其儀候。

別紙に書付申候。宜敷頼入存候以上 十二月十四日 杉野九一右衛門」

原惣右衛門宛の手紙

(元禄十五年五月六日付)

[然者殿様御法事等の義、御免にて四月十二日より同十四日迄御執行有之、御石塔、御位牌、外聞よろしく建立有之、先以珍重之御事と此上之悦びに御座候。其表に而は、さぞ嘸如何哉と可被思召、見る者よりは見ぬ人の心、扨々(さてさて)存遣られ申候]

杉野十平次備忘録
生年
  • 延宝四年(1676)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十八歳
戒名
  • 刃可仁剣信士
家系
  • 本姓・藤原氏
出身
  • 播州赤穂
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 札座横目
禄高
  • 八両三人扶持・二代
幼名
  • 不詳
妻子
  • 不詳
変名
  • 杉野九一右衛門
仮寓
  • 江戸本所三ツ目横町 紀伊国屋方・本所徳右衛門町一丁目長十郎店
  • 宇ノ津 二尺五寸
  • 脇差一尺八寸
討入切腹

遺言と辞世の句 不詳です

赤穂四十七士と萱野三平

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