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赤穂義士 武林唯七隆重の一部始終

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父の渡辺平右衛門の時代に 赤穂浅野の始祖、浅野長直に仕えて二代目で凶変に遭う。赤穂藩士であった隆重の兄は生き残り、のちに安芸浅野本家に仕えて豊岡に出向き、大石内蔵助の妻子を安芸浅野藩に迎える役を果たしています。

家紋です
武林家紋 巴
銘板です
唯七の銘板
家系図です
家系図

唯七の特筆事項

武林唯七の画像です家系 祖父は中国人
  • 祖父が明国の杭州武林県の出身で孟子の後流として孟二寛と称していたが、日本に亡命して長州に住むがのち、芸州藩に武林治庵と名のり藩医として仕え、明暦三年(1657)に没し広島の南湘院に葬られている。
  • 日本人妻との間に一子、後妻との間に次子がありこれが武林唯七の父、渡辺平右衛門で浅野長直に仕えた。
  • 武林唯七の兄、渡辺半右衛門が渡辺家を継ぎ、浅野内匠頭の命令で唯七が武林家を興した。
討入の時 吉良上野介を捕らえる

広間から進み吉良義周の居間に近づこうとした時、薙刀をもって向かってきたので斬り合って額と背中に傷を負わせたが助太刀が来て取り逃がす。捨てて逃げた薙刀には吉良家の定紋が入っていたので吉良左兵衛義周であったかも知れないと口惜しがったと書いている書物は「介石記」「烈士報讐録」「赤穂四十七士伝」「元禄快挙真相録」「真記赤穂義士録」「武林隆重伝」など多くあるが、戦った武士は不破数右衛門が正しいとする説もある。台所近くの炭部屋で吉良上野介を捕らえた手柄により泉岳寺で二番目に焼香している。

兄の半右衛門のこと

浅野本家へ再仕官 兄の友人で間十次郎光興の慰めの手紙や大石内蔵助良雄から半右衛門宛ての書状に兄が孝、弟が忠をなしているから立派だという内容が書かれていた。刃傷事件で浪人したあと武林勘助の名で藝州浅野藩に仕官し、正徳三(1713)九月二十六日に大石内蔵助の妻の理玖や大三郎豊岡から本家藝州浅野藩に迎える役を務めた

手紙 吉原へ・・・

兄の半右衛門宛で、「払ひ道具など後座候間、御見合次第に御払ひ下さる可く候。頼み奉り候。金にいたし母に渡し申し度く存じ奉り候。貴様御世話ながら、ひらにひらに頼み奉り候」又、同文中に「憂さはらしに島原や吉原へも一度は行ったから浮世に気の残りはない。ただ大きな心残りは赤穂に残して置いた妾のことで、思えば可哀想でならない」との言葉と「妹が松山より帰って赤穂へも参っているだろうから何事も兄貴を御頼みしており宜敷面倒を見てやって欲しい」と頼んでいる。彼が気にしていた妾の詳細は不明、妹の名は幕府に提出した「親類書」にも記載がなく不明です。

唯七の出自と経歴など

生年 寛文十二年(1672) 家系 特筆事項に記載
没年 元禄十六年二月四日 出身地 不詳
享年 三十二歳 渡辺平右衛門
戒名 刃性春剣信士 北川久兵衛(浪人)の娘
禄高 十五両三人扶持 ・ 二代 兄弟 実兄 渡辺半右衛門
役職 中小姓 ・ 馬廻 親戚 従弟 武林半六(松平安芸守家臣)
徒弟 霊国(武林半六弟)
屋敷 江戸藩邸 変名 渡辺七郎右衛門 ・ 竹森喜多八隆重(仮名手本)
幼名 不詳 仮寓所 本所徳右衛門町一丁目(征右衛門説あり)長十郎店
性格 義烈(忠義の心が強く激しい) 討入守備 表門隊突入 吉良邸討入り時の詳細
刀と鎖 広国 二尺
脇差 水田 一尺六寸と大身の槍
お預け所 長門長府藩毛利甲斐守綱元 赤穂四十六士の切腹
雅号 不詳 切腹場所 長門長府藩毛利甲斐守綱元下屋敷
妻子 不詳 介錯人 鵜飼惣右衛門
辞世の句 「仕合や 死出の山路は 花ざかり」(述取拾義)
「三十年来一夢中、捨身取義夢尚同、双親臥病故郷在、取義拾恩夢共空」(遺言不詳)
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

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