トップに戻る

赤穂義士 寺坂吉右衛門信行の一部始終

ホームページ移転のお知らせとお願い auホームページ公開代理サービス閉鎖(20171031)の連絡を受け、このサイトに移転しました。旧URLでブックマークやリンクをお貼りの皆様、お手数ですが変更をよろしくお願い致します。

てらさかきちえもん のぶゆき赤穂義士のトップページに戻る

赤穂浅野藩に三百人いた足軽の中でただ一人 討ち入りに加わり、切腹を免れた後も吉田家の遺族に仕え、江戸で八十三歳の天寿を全うしている。義士か否かの論争があるなか、四十七士論を支持したいと思うのは私だけだろうか。

赤穂城大手門を出る裏門隊の面々
赤穂城大手門を出る赤穂義士祭での裏門隊、寺坂吉右衛門もこのなかに・・・
家紋です
寺坂家 家紋
銘板です
寺坂の銘板
家系図です
家系図

吉右衛門の特筆事項

寺坂吉右衛門の画像です逃亡説は誤り
昭和になり立証される! 昭和十一年に至り伊藤家(伊藤十郎太夫の末裔)から多数の資料が発見され、伊藤武雄著「赤穂義士寺坂雪冤録」や渡辺世祐博士著「義士講寅寺坂吉右衛門信行」で逃亡説が間違であることが立証された。

伊藤十郎太夫書置

「寺坂吉右衛門が泉岳寺境内に入ろうとした所、寺内に入ってしまうと外に出れないのでかねて忠左衛門が申し含めておいたことが無駄になる。とのことで十二月十五日午前十時ごろ一同と門前で別れ、十二月二十九日に播州亀山に帰り着いた。また翌年二月三日、切腹の前日に十郎太夫に送った暇乞い状に「・・・吉右衛門のことはよろしくお願いいたします。うかつなことはしゃべらないようにお願いいたします」とある。

逃亡説誤りの根拠と諸説

  • 四十六士が切腹するまで吉右衛門逃亡に関する記録が一切ない
  • 逃亡してすぐに故郷に帰れる?(主の忠左衛門が存命中にである)
  • 八歳から主に仕え、ただ一人留まった律儀者が裏切って逐電する?
大石内蔵助や吉田忠左衛門らは分限帳にも載らない足軽でありながら、一人同志として留まった吉右衛門を生かしてやりたかったとする説、浅野本家などへの生き証人の役割りを担ったとする説、足軽に助勢をかったと言われては武士の面目がたたないので逐電させたなどの説がある。
義士は四十七士か四十六士か
議論紛糾! 寺坂吉右衛門の敵前逃亡説と足軽(士分でない)説が論争の根拠となる。

四十七士論 論拠は「浅野内匠家来口上書」に記述されている人数による。

四十六士論 四家へのお預けになった人数と切腹の人数による。

徳富蘇峰の「近世日本国民史」の元禄義士編で「寺坂は臆病風に襲われて一命が惜しいばかりに逃亡した」と、太宰春台は荻生徂来よりも激しく反義士論を唱え、三宅観瀾は「烈士報讐録」の中で逃亡説をとる。荻生徂来は四十七士だが義士ではないと唱えるなど様々です。
経歴 遺族にも仕える
  • 延宝元年(1673)赤穂藩士吉田忠左衛門兼亮に仕え一時近松勘六行重の父、小右衛門行生にも仕える。
  • 寛文三年(1686)主人兼亮が加東郡代の時に組下の足軽弓組となり事変後も点々とする主人につき従った。
  • 吉田忠左衛門の小者(足軽)であったが忠左衛門の取り立てによって三両二分二人扶持弓組足軽として、内匠頭の家来の身分となったとする説もある。
  • 討入り後は吉田忠左衛門の遺族に仕え、遺族が姫路の伊東家(娘婿の家)に移った時、吉右衛門夫婦も同行し、藩主の本多家が三州刈谷に転封のときも伊東家及び吉田家遺族に随行している。
  • 伊豆大島へ遠島の吉田伝内(忠左衛門の遺子)が赦免になると江戸に出迎え、江戸小石川の洞雲寺に伴い剃髪して恵学と称した伝内を母たちが寄食している伊藤十郎太夫家の任地越後村上に連れ帰っている。恵学(伝内)は同地の永昌寺で修業に入ったと記録にある。
  • 享保二年(1717)忠左衛門の妻女が亡くなったのを期に五十一歳の時、伊東家を離れ江戸麻布の曹渓寺に寺男として勤め、延享四年(1747)八十三歳で没した。
吉右衛門の詩 「二つの竹」に入収

「うつくしい 顔に化粧や 花曇」
「蓴菜(じゅんさい)に 何と踏出す 鴻の足」(鴻はこうと読み、鳥の名でひしくい)

吉右衛門の出自と経歴など

生年 寛文五年(1665) 家系 本姓 ・ 藤原氏(赤松家家臣の子孫)
没年 延享四年十月六日 出身地 播磨国赤穂郡若狭野村
享年 八十三歳(討入時三十八歳) 寺坂吉右衛門(赤穂藩船方役人)
戒名 泉岳寺 遂道退身信士
麻布曹渓寺 節岩了貞信士
川端与右衛門の娘
禄高 三両二分二人扶持 兄弟 不詳
役職 足軽(吉田忠左衛門家扶) 親戚 伯父 奥野伝蔵(本多中務大輔作事方役人)
従弟 平井文太(本多中務大輔作事方役人)
従弟 平井寛太(本多中務大輔勝手方役人)
屋敷 不詳 変名 寺坂平右衛門信道(仮名手本)
幼名 不詳 仮寓所 江戸松本町米屋忠太夫方から麹町六丁目善右衛門店に移る。
性格 不詳 討入守備 裏門隊 吉良邸討入り時の詳細
不詳 妻子 妻 名不詳(下村長次郎娘)
息子 吉右衛門信保
雅号 進歩 遺言 辞世句ともに不詳
元禄赤穂事件関連ページ

事件の年譜 刃傷事件・赤穂開城(その1) 山科隠棲・江戸下向(その2) 困窮生活・討ち入り(その3) 泉岳寺・切腹・遺族(その4) 事件の詳細 刃傷事件・内匠頭切腹(その1) 赤穂開城・仇討ち準備(その2) 吉良邸討入り(その3) 引き揚げ・泉岳寺(その4) 切腹・遺子の処罰(その5) 赤穂城・浅野家・吉良家 赤穂城古写真など 浅野内匠頭長矩 吉良上野介義央

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼亮
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼定 不参加 萱野重實

■ページの先頭に戻る ■トップページ ■赤穂義士トップページ ■次のページ(富森助右衛門)
寺坂信行の頁へようこそ! © 2011 tadeho All Right Reserved 忠臣蔵のふるさと赤穂においでよ