赤穂城(兵庫県赤穂市)

赤穂城追手門と隅櫓三の丸大手門と東隅櫓 1/5
赤穂城追手門と隅櫓三の丸大手門と東隅櫓 1/5
大石邸長屋門大石邸長屋門 2/5
二の丸庭園二の丸庭園 3/5
二の丸池泉二の丸庭園池泉 4/5
本丸門本丸櫓門(やぐらもん) 5/5
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本丸 二の丸 三の丸 赤穂城跡公園

赤穂城の歴史

令和城図 (戻る)

サムネイル

陣たくん

初代藩主浅野長直が慶安元年(1648)から13年をかけて築いた変形輪郭式の平城。三代藩主浅野内匠頭の江戸城松の廊下での刃傷事件により断絶し、元禄十四年(1701)9月に三万三千石で永井家(永井伊賀守直敬)に藩主が代わり、宝永三年(1706)には二万石で森家(森和泉守長直)に移り12代165年を経て明治維新を迎えます。廃藩置県後に建物は取り壊され私有化、昭和46年(1971)に国史跡に指定され、公有化と整備が進められています。本丸及び二の丸に池泉を備えた庭園が発掘され、江戸時代初期の大名庭園として平成14年(2002)に国名勝に指定されています。

浅野家紋

初代大名
浅野長直
3代 57年
53500石→50000石

浅野藩当時の赤穂城図と重臣屋敷(戻る)

浅野藩赤穂城図
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永井家紋

次代大名
永井直敬
1代 5年
33000万石

森家紋

次々代大名
森長直
12代 165年
20000石

本丸

本丸復元模型

浅野家時代本丸模型(戻る)

本丸内の大部分は建物が占め、「表御殿」は政務を行う公的な場、「中奥」は藩主の私的な場、「奧」は女中部屋として使用された。

本丸御殿見取り図

永井家時代本丸間取り図(戻る)

浅野家断絶後に入封の永井家時代の「間取り図」が見つかり、平成元年に本丸庭園内の礎石に間取りを復元。

本丸 明治10年頃

赤穂城本丸門古写真

明治六年発布の廃城令後に取り壊されて
  • 旧制赤穂中学校
  • 第二次大戦後は兵庫県立赤穂高校の学舎として昭和46年まで続き
  • 以降、発掘調査をへて本丸庭園になる
  • 復元高麗門と櫓門の詳細

天守台

本丸庭園と天守台 (戻る)

天守閣が造られなかった理由
  • 莫大な出費で資金難から断念した説が有力
  • 徳川幕府の威光に遠慮をした説
  • 太平の世で天守閣が不要になった説
  • 軍師の近藤正純が寛文二年(1662)に病死した為など諸説がある
赤穂城パノラマ
停止 / 再開 本丸庭園全景(撮影:天守台)

独り言市立歴史博物館の復元模型や間取り図をみても、本丸内は複雑な構造をしていました。天守台からは赤穂城全体が俯瞰でき、北の砦である雄鷹台山などが連なる山まで眺められ「天守台からの眺め」お勧めです。

二の丸

赤穂城二の丸庭園

二の丸 明治10年頃

赤穂城二の丸門古写真

22600坪で形は梯郭式で本丸とは濠で隔てられ東西に仕切があり北西の郭と南東の郭に分かれていた。
  • 門は二の丸門・水手門・西中門・東と西の仕切り門の計五箇所
  • 隅櫓は五箇所
  • 大筒狭間数は三十五箇所
  • 北地区に家老大石頼母助屋敷
  • 南地区には馬場・茶屋・米蔵・煙硝蔵・茶果樹園があった

二の丸庭園

二の丸庭園決まり事 (戻る)

二の丸門跡の右手には浅野藩時代、藩主浅野長直に重用された大石頼母助良重の屋敷がありました。良重は大石内蔵助の大叔父にあたります。山鹿素行が赤穂に配流された際、大石頼母助屋敷の一隅で8年余を過ごしています。ここには「錦帯池」なる大規模な池泉があり東は大石頼母助屋敷の裏手から西仕切にまで及び大名庭園の重要な役割を果たしています。復元されて無料で公開されています。

山鹿素行と赤穂藩浅野家

二の丸山鹿素行座像山鹿素行銅像

1回目:三十一歳の時
浅野長直は承応元年(1652)に山鹿素行を千石の高禄で招聘し江戸を拠点に藩士の教育に力を注ぐ。承応二年(1653)八月から約七か月間赤穂に滞在して築城中の二の丸虎口の設計を行う。
2回目:四十五歳の時
寛文六年(1666)「聖教要録」の著述で筆禍にあい、十年間赤穂に配流となり二の丸の大石頼母助邸で暮らした。その間、赤穂藩士は直に武士道の真髄を学ぶことができ、討ち入りに加わった門下生は大石内蔵助以下十余人を数えます。

三の丸

三の丸 明治10年頃

赤穂城大手門と隅櫓古写真

25.600坪で城形は梯郭式。門は大手門・清水門・塩屋門・干潟門の四箇所。
  • 弓矢鉄砲狭間数は六百三十二箇所
  • 大筒狭間数は三十一箇所
  • 重臣約二十軒の屋敷のうち義士大石内蔵助・大石主税・片岡源五右衛門・大石瀬左衛門・礒貝十郎左衛門・間瀬久太夫の屋敷がありました

大手門

追手門内側

赤穂城の玄関口、大手門は東面する高麗門と南面する櫓門で構成された雄大な城門でした。大手隅櫓は大手門の北にある二重櫓で東西四間半、南北三間半の基底部を持ち、大手門を監視する役割と大手門を防備する役割をを担っていました。明治初期に失われたものを昭和30年に大手門と大手隅櫓が復元されました。

大石内蔵助屋敷(のち大石神社)

赤穂大石神社

元禄赤穂事件が起きた当時、三の丸には大石内蔵助など重臣二十余士の屋敷がありました。明治維新を迎え赤穂義士を讃える気運が高まり家老の藤井又左衛門と大石内蔵助の屋敷跡を中心に大石神社が創建されました。大石家長屋門の内側及び庭園を大石神社入館券で見ることができます。
大石神社 大石邸長屋門

近藤源八屋敷長屋門

近藤源八宅跡

赤穂城の設計をした家老、近藤三郎兵衛正純の子。源八は父の跡を継ぎ軍師として千石の番頭でした。
屋敷は間口三十三間、奥行三十一間と広大で、屋敷跡には長屋門の三分の一が残されており、平成10年(1998)4月に赤穂市指定文化財に指定され、現在は土日・祝日には無料で建物内部が公開されています。

清水門跡

清水門跡

川口門とも呼ばれた清水門は無血開城した大石内蔵助が最期に退出した門として知られます。当時、熊見川に面した門外には米蔵、薬煙場、番所などがあり、米蔵の跡に赤穂市立歴史博物館が建てられました。平成14年(1991)に門前面の橋と石垣の発掘調査が行われました。

水手門跡

水手門跡

二の丸の南端にあり海や干潟に面した門で物資の搬入門でした。周囲は船の出入りの為に城壁を内側に大きく引き込んだ緩やかな曲線が特徴です。門の前面には船着きの雁木が設けられ、波よけの突堤が城壁から突出していました。 参考史料 「赤穂城史蹟名勝の探訪ガイド」

赤穂城跡公園

城跡公園

三の丸花見広場 (戻る)

赤穂城跡公園(花見広場)は元禄桜苑とも呼ばれ、二の丸庭園の南西部にあり西仕切り門で区切られていまます。発掘調査で池泉がみつかり復元され、春には二の丸庭園の池泉で屋形船遊覧が催されます。花見広場には元禄期の桜など十八種、200本余があり市民の憩いの場になっています。

駐車場:位置情報は拡大画像

大石神社駐車場位置情報<br>mapcode 541 586 387<br>緯度経度 34.748246, 134.388076(戻る)

歴史博物館駐車場位置情報<br>mapcode 541 587 335G<br>緯度経度34.748092, 134.390581(戻る)

赤穂城メモ
住所 赤穂市上仮屋 地図で確認

mapcode 541 587 452 マップコードアイコン
緯度経度 34.749022, 134.389465

料金 無料

開閉門時間

本丸と二の丸庭園は9時から16時で16時30分閉門

終日閉門日

本丸と二の丸庭園は12月29日から1月4日

近くの観光スポット

市立歴史博物館 大石神社 大石邸長屋門 花岳寺 息継ぎ井戸 萬福寺 随鴎寺

アクセス

レンタサイクルマーク

赤穂駅1km 山陽道赤穂ic4km

レンタサイクル

JR赤穂・坂越・有年各駅に有り

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