赤穂城の古写真と図面及び築城経緯

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赤穂城の総面積は五万七千余坪 藩士の数は三百余人の平城で、十三年の歳月をかけて一国一城令の発布後に完成しています。徳川時代の築城技術を知る上で貴重な城ですが資料が少なく現在も発掘作業と復元作業が続いています。

明治10年頃の赤穂城

本丸門赤穂城本丸門古写真
大手門と隅櫓赤穂城大手門と隅櫓古写真
二の丸門赤穂城二の丸門古写真
塩屋門と西櫓赤穂城塩屋門古写真
潮見櫓(しおみやぐら)赤穂城潮見櫓古写真

赤穂城の詳細と藩士の数など

形と規模(総坪数は57.550坪)
赤穂城跡模式図

城の形

甲州流小円法に準じた梯郭式の平城。

藩士の数

士分308人が一般的ですが300〜360人まであり、赤城盟伝308人、赤城士話300余人、赤穂義人録308人、介石記360人などです。足軽は300人、中間は490人いました。

本丸 9.350坪

形は輪郭式で藩邸、番所、倉庫などの建物と天守台や庭園(泉水)などがあり、門は本丸門、厩口門、刎橋門の三箇所。隅櫓は南北二箇所。大筒狭間数は八箇所。天守台は築かれたが天守閣はありませんでした。

二の丸 22.600坪

形は梯郭式で本丸とは濠で隔てられ東西に仕切があり北西の郭と南東の郭に分かれていました。
門は二の丸門、水手門、西中門、東と西の仕切り門の計五箇所。隅櫓は五箇所。大筒狭間数は三十五箇所。北地区に家老大石頼母助屋敷、南地区には馬場、茶屋、米蔵、煙硝蔵、茶果樹園がありました。

三の丸 25.600坪

形は梯郭式。門は大手門、清水門、塩屋門、干潟門の四箇所。弓矢鉄砲狭間数は六百三十二箇所。大筒狭間数は三十一箇所。藩の重臣約二十軒の屋敷群があり、討ち入りに加わった大石内蔵助、大石主税、片岡源五右衛門、大石瀬左衛門、礒貝十郎左衛門、間瀬久太夫の屋敷がありました。

令和の赤穂城跡と大石内蔵助屋敷

本丸御殿見取り図

史料が残っていない 復元できない!

赤穂城本丸御殿間取り図永井家(浅野家の後)時代の間取り図が発見されたことで往時の御殿の様子を知ることができるようになり、平成元年に間取りは本丸庭園内の礎石に復元されました。本丸内は大部分が藩邸で占められ、御殿は表、中奥、奧からなり表御殿は政務を行う公的な場、中奥は藩主の私的な場、奧は女中たちの部屋として使用されました。

徳川幕府の事情と赤穂城の特筆事項

一国一城令

大名行列の奴城の新増改築は厳禁! 戦国から安土桃山及び江戸時代初期に於ける城の総数は全国に三千余あったが徳川二代将軍秀忠の時代元和元年の「一国一城令」により百七十城に規制。新築と増改築が厳禁される。

例外の築城許可

西国大名の分断と監視と防壁! 浅野藩の前の城主は松平(池田)右近太夫輝興で所領は三万五千石。突如、発狂して妻と侍女を殺害し正保二年三月二十日(1645)に所領を没収され改易となる。三ヶ月後の六月十三日、大坂城に加番中の浅野長直は老中からの使者、蒔田数馬助が持参した書状により常陸笠間と同じ五万三千五百石で赤穂へ国替を命じられる。慶安元年(1648)六月十一日に築城の許可願いを幕府に提出し、同月十七日に許可がおり八月より築城を開始した。

天守閣がない訳

赤穂城天守台御所の修理で金欠病? 寛文元年(1661)に焼失した禁裏(御所)の造営を命じられ莫大な出費の為に資金難から断念した説が有力ですが未確定です。その他考えられる理由として徳川幕府の威光に遠慮をした。世は太平で天守閣を必要とする時代ではなくなった。軍師の近藤正純が寛文二年(1662)に病死したなどがあります。写真は天守台

近代築城術を駆使

歴史的な価値! 東は熊見川(現千種川)で自然を利用した濠。南〜西は満潮時は海水、干潮時には泥洲と化す天然の要塞の為、三の丸を全て造る必要がありませんでした。城地の陰陽(おんみょう)は東の青龍は千種川。西の白虎は備前街道、南の朱雀は瀬戸内海、北の玄武には雄鷹台山高山が連なり四神相応の地となっていることや城壁の折れ曲がりを多用して攻守を考えた西洋式城(稜堡式築城)を採用し、城下町には城の出丸として寺院を十二箇所に配置して備えるなど元和元年(1615)の一国一城令後に出来た城としての史的価値があるとされています。尚、本丸庭園泉水の中島には浅野家三霊を祀る豊亮神の社がありました。

設計者の近藤三郎左衛門と息子の源八

近藤源八長屋門仇討ちに加わらず! 近藤三郎左衛門正純は甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲門下で浅野家軍学師範を務める禄高千石の家老で、赤穂城の設計を担当し慶安元年(1648)に築城を開始し十三年をかけて寛文元年(1661)に完成させました。生没は慶長八年(1603)から寛文二年(1662)で享年五十九歳。法名は真入院釈浄因。
息子の近藤源八正憲は正純の弟の伝碩の子で養子。千石を食む家老で刃傷事件当時は組頭を務めていながら義盟には最初から不参加でした。妻は大石内蔵助良欽の長女で大石内蔵助良雄の叔母にあたります。開城後は付近の中村に浪居して生涯を終えその子孫も不詳です。 画像は現存する長屋で墓所は随鴎寺

山鹿素行と赤穂藩浅野家

山鹿素行銅像武士の道徳を厳しく説く 浅野長直は承応元年(1652)三十一歳の山鹿素行を千石の高禄で招聘し江戸を拠点に藩士の教育に力を注ぎました。承応二年(1653)八月から約七か月間赤穂に滞在して築城中の二の丸虎口の縄張り(設計)を行っています。
寛文六年(1666)四十五歳の時に「聖教要録」の著述で筆禍にあい、十年間赤穂に配流となり二の丸の大石頼母助邸で暮らしました。その間、赤穂藩士は直に武士道の真髄を学ぶことができ、討ち入りに加わった門下生は大石内蔵助以下十余人を数えます。 写真は二の丸にある山鹿素行像

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