赤穂城の古写真と図面及び築城経緯

一国一城令後に築城された異例の城

元禄期の赤穂城

元禄赤穂城サムネイル

総面積は五万七千余坪

十三年の歳月をかけて完成。

一国一城令発布後の築城技術を知る上で貴重な城ながら残された資料が少なく現在も発掘作業と復元作業が続いています。

初代浅野家紋浅野家紋

二代永井家紋永井家紋

三代森家紋森家紋

藩士と足軽などの数

赤穂城跡模式図

定説は士分308人ながら諸説がある。
  • 赤城盟伝308人
  • 赤城士話300余人
  • 赤穂義人録308人
  • 介石記360人などとなっています
  • 足軽が300人と中間が490人いました

異例の築城許可

西国大名の分断と監視と防壁!
大坂城に加番中の浅野長直は常陸笠間と同じ五万三千五百石で赤穂へ国替を命じられる。

戦国から安土桃山及び江戸時代初期に於ける城の総数は全国に三千余、二代将軍秀忠の「一国一城令」により百七十城に規制されたなか、慶安元年(1648)六月十一日に築城の許可願いを幕府に提出し、同月十七日に許可がおり八月より築城を開始した。

本丸 9.350坪

本丸門(明治10年頃)赤穂城本丸門古写真

形は輪郭式で藩邸、番所、倉庫などの建物と天守台や庭園(泉水)などがあった。
  • 門は本丸門・厩口門・刎橋門の三箇所
  • 隅櫓は南北に二箇所
  • 大筒狭間数は八箇所
  • 天守台は築かれたが天守閣はなかった

二の丸 22.600坪

二の丸門(明治10年頃)赤穂城二の丸門古写真

形は梯郭式で本丸とは濠で隔てられ東西に仕切があり北西の郭と南東の郭に分かれていた。
  • 門は二の丸門・水手門・西中門・東と西の仕切り門の計五箇所
  • 隅櫓は五箇所
  • 大筒狭間数は三十五箇所
  • 北地区に家老大石頼母助屋敷
  • 南地区には馬場・茶屋・米蔵・煙硝蔵・茶果樹園があった

三の丸 25.600坪

大手門と隅櫓(明治10年頃)赤穂城大手門と隅櫓古写真

城形は梯郭式。門は大手門・清水門・塩屋門・干潟門の四箇所。
  • 弓矢鉄砲狭間数は六百三十二箇所
  • 大筒狭間数は三十一箇所
  • 重臣約二十軒の屋敷のうち義士大石内蔵助・大石主税・片岡源五右衛門・大石瀬左衛門・礒貝十郎左衛門・間瀬久太夫の屋敷もあった

歴史的な価値!

東は熊見川(現千種川)で自然を利用した濠。南~西は満潮時は海水、干潮時には泥洲と化す天然の要塞の為、三の丸を全て造る必要のない立地。

城地の陰陽(おんみょう)は東の青龍は千種川。西の白虎は備前街道、南の朱雀は瀬戸内海、北の玄武には雄鷹台山高山が連なり四神相応の地となっている立地。

城壁の折れ曲がりを多用した西洋式城(稜堡式築城)を採用、城下町に城の出丸として寺院を十二箇所に配置、一国一城令後に完成し史的価値。

潮見櫓(明治10年頃)赤穂城潮見櫓古写真

本丸御殿見取り図・復元模型

史料が残っていない

永井家時代本丸間取り図(戻る)永井家時代本丸間取り図
浅野家時代本丸模型(戻る)浅野家時代本丸模型「歴史博物館蔵

永井家時代の見取り図発見

浅野家断絶後に入封の永井家時代の「間取り図」が見つかり、平成元年に本丸庭園内の礎石に間取りを復元。本丸内の大部分は建物が占め、「表御殿」は政務を行う公的な場、「中奥」は藩主の私的な場、「奧」は女中部屋として使用された。

天守閣・近藤源八長屋・山鹿素行座像

天守閣がない訳

赤穂城天守台

御所の修理で金欠病?

寛文元年(1661)に焼失した禁裏(御所)の造営を命じられる
  • 莫大な出費で資金難から断念した説が有力
  • 徳川幕府の威光に遠慮をした説
  • 太平の世で天守閣が不要になった説
  • 軍師の近藤正純が寛文二年(1662)に病死した説など諸説がある 画像は天守台

設計者の近藤三郎左衛門と息子源八

近藤源八長屋

近藤三郎左衛門正純は甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲門下、浅野家軍学師範で千石の家老、赤穂城の設計と築城責任者。生没は慶長八年(1603)から寛文二年(1662)で享年五十九歳。法名「真入院釈浄因」

仇討ちに加わらず!

息子の近藤源八正憲は正純の弟の伝碩の子で養子。千石を食む家老で刃傷事件当時は組頭の要職ながら仇討ちには最初から不参加。

源八正憲の妻は大石内蔵助良欽の長女で大石内蔵助良雄の叔母にあたる人。開城後は付近の中村に浪居して生涯を終えその子孫も不詳です。墓所は随鴎寺

山鹿素行と赤穂藩浅野家

山鹿素行銅像

築城時設計に参加

浅野長直は承応元年(1652)に三十一歳の山鹿素行を千石の高禄で招聘し江戸を拠点に藩士の教育に力を注ぐ。承応二年(1653)八月から約七か月間赤穂に滞在して築城中の二の丸虎口の設計を行う。

武士の道徳を厳しく説く

寛文六年(1666)四十五歳の時に「聖教要録」の著述で筆禍にあい、十年間赤穂に配流となり二の丸の大石頼母助邸で暮らした。

その間、赤穂藩士は直に武士道の真髄を学ぶことができ、討ち入りに加わった門下生は大石内蔵助以下十余人を数えます。 画像は二の丸山鹿素行座像

■令和赤穂城

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