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浅野内匠頭阿久利夫人実弟浅野大学領地と石高赤穂浅野家概略

赤穂浅野家三代藩主浅野内匠頭長矩は勅使接待役を拝命中に江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、赤穂浅野家は改易。この事件が端緒となり日本三大仇討ちの一つ赤穂事件が起きる。
浅野家の始祖と系譜、赤穂浅野藩の歴代三藩主と実弟長廣の生涯及び支配地と石高などの記録です。
独り言家は断絶、身は切腹、城は没収、数千にも及ぶ家臣と家族を路頭に迷わせても抑えきれなかった浅野内匠頭の怒りとは?。儀礼用の小刀で刺さずに斬りつけるなど不可解な点も多い。巷説も含め起因は十数説にも及ぶが現在でもはっきりしたことは分かっていない。 諸先生の見解
系譜と家系図と家紋

清和源氏→源頼光→六条院の時、尾張国浅野庄に住み浅野次良と称す。
浅野又右衛門長勝は織田信孝と信長の二代に仕え弓役となる。
長女が秀吉夫人のねね(高台院)
次女のやや(長生院)
長勝の姉の子安井長政を婿養子に迎えこれが浅野弾正少弼長政
家紋:班入り鷹の羽
浅野家 始祖
浅野弾正少弼長政(1545~1573.9.26)は秀吉の天下統一後、論功により甲斐国甲府に築城し二十四万石の大名となる。
秀吉の没後、石田三成と不仲から関ヶ原の戦いでは長男幸長と共に徳川方につき参戦する。
長男 幸長
関ヶ原戦の論功で紀伊国三十六万六千五百石の大名になるが後継がいなかった。
次男 長晟(ながあきら)
大坂夏と冬の陣で武勲を立て、幸長の後を継ぎ紀伊国藩主を経て、安芸国と備後半分の四十二万六千五百石の広島城主となり明治まで続く。
三男 長重
二代将軍秀忠の人質として江戸に住み小姓として仕えて寵愛され、慶長六年(1601)に下野国真岡に二万石を賜り大名となる。
慶長十一年(1606)には隠居して常陸真壁五万石を賜るが元和八年(1622)に病没。嫡男の長直が常陸笠間領主を継ぐ。
赤穂初代藩主 長直 名君と謳われる
浅野長直
常陸笠間領主から正保元年(1644)一月十一日、赤穂五万三千石に転封となり赤穂浅野家が誕生する。
長直の功績
- 赤穂城の築城 「一国一城令」発布後に許可を得て十三年かけて築城
- 新田の開墾 新田を開墾して新田村をつくり、米を増産する
- 塩田の拡張 江戸に於ける塩市場を独占する生産体制を確立する
- 上水道の整備 江戸や福山と並ぶ日本三大上水道を造り上げる
- 山鹿素行を家老待遇(1000石)で招き藩士の資質向上に努める
二代藩主 長友
浅野長友
長直の嫡男で後継者の長友は治政四年に三十三歳の若さで世を去る。実子の誕生で養子を分家。藩の禄高が五万三千石から五万石になった。
- 養子 長賢 加茂郡家原に三千五百石で分家
- 養子 長恒 赤穂郡若狭野に三千五百石で分家
- 実子 長矩 長友の死で第三代赤穂藩主となる
- 実子 長廣(次男)
二代藩主夫人「波知」浅野内匠頭の母
母親の弟も事件を起こし切腹 波知は志摩国鳥羽三万五千石城主内藤飛騨守忠政の娘。後嗣の内藤和泉守忠勝(忠政次男で波知の弟)は延宝八年(1680)六月、増上寺で第四代将軍・徳川家綱の法要の時に永井信濃守尚長を殺害し切腹、その二十一年後に甥の浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こして切腹。夫人の墓所は
大蓮寺三代藩主 浅野内匠頭長矩
出自など
浅野長矩
生年
没年
戒名
享年
禄高
生国
幼名
教養
- 雅号は梅谷・茶は石州流・書は北島雪山・兵学は山鹿素行に学ぶ
性格 短気でわがまま
強硬清廉にして短気、わがままで学究肌。長矩は後継に弟の大学長廣を充て側室を持たなかったなど一途な気質が定説となっています。
持病発病時に起きた刃傷事件
持病の痞(つかえ)とは?:胸が圧迫されて苦しむ病で三月十一日頃より病状が進み、天候も曇天や雨で病状を悪化させる要因になった。記録では十二日は終日雨、十三日は曇天、江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした十四日は花曇りでした。
難解な遺言
[此段兼て為知可申候共、今日不得止事候故、為知不申候、不審に可存候]
飯尾精先生は「千鈞の重みのある言葉で意味深遠な思いのこもった遺言」だと解説。
遺言の意味
[予め知らせておくべきであったが、今日の殿中の刃傷も一時の腹立ちではない。武士として忍びがたく、堪忍できなくて止むを得ず起こったことである。そういうわけであるのに、何も知らせなかったからさぞ不審に思うだろう]
推測はできるものの、これだけでは理由、原因がよく分からない。遺言を書くことは許されず、田村家の家臣が口述を筆記した事情があり、幕府への配慮もあって、かかる遺言になったのかも知れない。
辞世の句
[風さそふ 花よりもなほ 我は亦 春の名残を いかにとやせん]
句の意味 淡々と死に向かう境地を心静かに詠んだ詩だが浮き世への未練はいかんともし難いと採れる。
辞世の句の真贋
切腹の有様については多数の史料「多聞伝八郎筆記」「江赤見聞記」「浅野長矩伝」「浅野内匠頭御預一件」「田村家浅野長矩御預之節扣」それぞれに記してあるが、辞世の句が出ているのは「多聞伝八郎筆記」だけでその中に御歩行目付水野杢右衛門が受け取って田村右京太夫に差し出したとあるが、切腹をした田村家の「御預之節扣」には何も記録されていない。
浅野家へ引き渡したものの中にもこの辞世を書いた紙は入っていない。その為、此の辞世の句の信憑性を疑うむきもある。
介錯人 錯を仕損じる
磯田武太夫が介錯を仕損じたとある「磯田武太夫介錯仕損じ申候哉。御耳の脇に疵これ有るの由。御死体受取りに参り申し候者申し候」「浅野長矩伝」
切腹時の詳細墓(泉岳寺)

阿久利・剃髪後瑤泉院
正室 阿久利・瑤泉院
阿久利
寂しい余生 備前三好藩因幡長治の次女として寛文九年(1674)に備後三次で生まれる。
剃髪後「瑤泉院」、雅号「玉水」、仮名手本忠臣蔵では「顔世御前」
- 延宝五年(1677)七月阿久利五歳の時に結納
- 延宝六年(1678)四月九日に浅野家屋敷に引っ越しをする
- 天和三年(1683)正月十一日十歳で結婚。長矩は十七歳
- 元禄三年(1690)同棲。長矩二十四歳、阿久利十七歳で子供はなかった
- 長矩の死後は名を瑤泉院と改め、今井坂の浅野家(備後三次浅野江戸藩邸)に引き取られ余生を送る
- 正徳四年(1714)六月三日今井町三次浅野家下屋敷で病没。享年四十一歳。泉岳寺へ埋葬。戒名 瑤泉院殿良瑩正澄(りょうえいせいちょう)大姉
阿久利姫の持参金 仇討ちの資金になる
嫁入りの持参金を赤穂の塩田業者に貸し付けてその利子を化粧代とし、貸し付けの総額は五千四百七十両余と記録に残るが赤穂開城に際し回収できたのは六百九十両で回収率は10%ほどであった。
大石内蔵助はこの回収資金を浅野家の家名再興や討ち入りの為の活動資金に充て、討ち入りを前にした十一月末に
収支を清書した決算書を瑤泉院付の家老落合与左衛門信勝に届けている。
浅野大學長廣(ながひろ)

- 生年 寛文十年(1670)
- 没年 享保十九年(1734)六月二十日 享年六十五歳
- 法名 亮監院月清涼山、墓所は泉岳寺
- 浅野長友の次子で内匠頭長矩の実弟
- 内匠頭の養嗣子として赤穂領の新田三千石を分知、旗本寄合を務める
- 閉門 刃傷事件勃発で閉門の処罰を受ける
- 差し置き 元禄十五年七月十八日、広島浅野家への差し置きが決まる
- 赤穂浅野家再興 宝永七年九月十六日、安房国朝夷郡に五百石を拝領して旗本寄合に復帰する
赤穂藩浅野家石高
初代五万三千五百石

浅野長直が嫡男長友に藩主を譲る際、次男長賢(家原浅野家)に公の石高から三千五百石を三男長恒(若狭野浅野家)には私墾田の中から三千石を分封。
二代浅野長友以降五万石となる
三代藩主長矩が江戸城内で起こした刃傷事件で断絶するまで続き、次の永井藩では三万三千石、森藩で二万石となり明治維新の廃藩置県を迎えます。
石高のうわさ
新田の開墾と赤穂塩の生産量増で実質の石高は六万五千石とも七万石ともいわれるほど財政は豊かな藩だった。公の石高との差がよくわかる資料です。
吉良家と塩で競合
赤穂塩(元禄十四年当時)
塩田の面積 百二十四町歩
生産量 六十七万八千俵(5斗俵入り)
販路 大坂四割、江戸三割、北陸二割
吉良家の饗庭(あえば)塩
塩田の面積は二十町歩で赤穂塩の15%程度だったとされるが、市場での競合や製塩法を巡るトラブル説があるなど吉良上野介は浅野内匠頭を快く思っていなかった説がある。
江戸赤穂間を四日半で走破
- 距離の実測値は675.5km(172里)だが江戸時代は155里とされた
- 赤穂江戸間を通常15~16日(江戸京都間12~13日)とされ1日10里が目安とされた
- 飛脚便では八日、刃傷事件を知らせる早駕篭は四日半で走破している
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