浅野家の誕生と赤穂浅野家との関連、赤穂浅野藩の歴代三藩主と実弟の長廣の生涯及び支配地と石高などの記録です。
浅野又右衛門長勝は織田信孝と信長の二代に仕え弓役となる。
家紋:班入り鷹の羽
浅野長直
浅野長友
浅野長矩
強硬清廉にして短気、わがままで学究肌。長矩は後継に弟の大学長廣を充て側室を持たなかったなど一途な気質が定説となっています。
記録では十二日は終日雨、十三日は曇天、江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした十四日は花曇りでした。
[浅野長矩伝]によれば「磯田武太夫介錯仕損じ申候哉。御耳の脇に疵これ有るの由。御死体受取りに参り申し候者申し候」と武太夫が介錯を仕損じたとある。 切腹時の詳細
独り言 家は断絶、身は切腹、城は没収、数千にも及ぶ家臣と家族を路頭に迷わせても抑えきれなかった浅野内匠頭の怒りとは?。儀礼用の小刀で刺さずに斬りつけるなど不可解な点も多い。巷説も含め起因は十数説にも及ぶが現在でもはっきりしたことは分かっていない。 諸先生の見解
阿久利
剃髪後「瑤泉院」、雅号「玉水」、仮名手本忠臣蔵では「顔世御前」
大石内蔵助はこの回収資金を浅野家の家名再興や討ち入りの為の活動資金に充て、討ち入りを前にした十一月末に収支を清書した決算書を瑤泉院付の家老落合与左衛門信勝に届けている。
新田の開墾と赤穂塩の生産量増で実質の石高は六万五千石とも七万石ともいわれるほど財政は豊かな藩だった。公の石高との差がよくわかる資料です。
入浜式製塩法とは潮の干満を利用して海水を塩田に導き濃縮鹹水を作り窯で煮詰める製法。
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