赤穂城の古写真と図面及び築城経緯

元禄期の赤穂城

元禄赤穂城サムネイル

総面積は五万七千余坪

十三年の歳月をかけて完成。

一国一城令発布後の築城技術を知る上で貴重な城ながら残された資料が少なく現在も発掘作業と復元作業が続いています。

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規模・模式図 御殿間取り図 赤穂城の特徴

浅野家紋初代大名
浅野長直

3代 57年
53500石→50000石

永井家紋次代大名
永井直敬
1代 5年
33000万石

森家紋次々代大名
森長直
12代 165年
20000石

西国大名の分断と監視と防壁!

赤穂城跡模式図

大坂城に加番中の浅野長直は常陸笠間と同じ石高で赤穂へ国替を命じられる。

戦国から安土桃山及び江戸時代初期に於ける城の総数は全国に三千余、二代将軍秀忠の「一国一城令」により百七十城に規制されたなか、慶安元年(1648)六月十一日に築城の許可願いを幕府に提出し、同月十七日に許可がおり八月より築城を開始した。

藩士と足軽などの数

定説は士分308人ながら諸説がある。

本丸 9.350坪

明治10年頃の「本丸門」赤穂城本丸門古写真

形は輪郭式で藩邸、番所、倉庫などの建物と天守台や庭園(泉水)などがあった。

二の丸 22.600坪

明治10年頃の「二の丸門」赤穂城二の丸門古写真

形は梯郭式で本丸とは濠で隔てられ東西に仕切があり北西の郭と南東の郭に分かれていた。

三の丸 25.600坪

明治10年頃の「大手門と隅櫓」赤穂城大手門と隅櫓古写真

城形は梯郭式。門は大手門・清水門・塩屋門・干潟門の四箇所。

歴史的な価値
東は熊見川(現千種川)で自然を利用した濠。南~西は満潮時は海水、干潮時には泥洲と化す天然の要塞の為、三の丸を全て造る必要がありませんでした。城地の陰陽(おんみょう)は東の青龍は千種川。西の白虎は備前街道、南の朱雀は瀬戸内海、北の玄武には雄鷹台山高山が連なり四神相応の地となっていることや城壁の折れ曲がりを多用して攻守を考えた西洋式城(稜堡式築城)を採用し、城下町には城の出丸として寺院を十二箇所に配置して備えるなど元和元年(1615)の一国一城令後に出来た城としての史的価値があるとされています。尚、本丸庭園泉水の中島には浅野家三霊を祀る豊亮神の社がありました。

明治10年頃の「潮見櫓」赤穂城潮見櫓古写真

本丸御殿見取り図・復元模型

永井家時代の見取り図発見

浅野家断絶後に入封の永井家時代の「間取り図」が見つかり、平成元年に本丸庭園内の礎石に間取りを復元。本丸内の大部分は建物が占め、「表御殿」は政務を行う公的な場、「中奥」は藩主の私的な場、「奧」は女中部屋として使用された。

永井家時代本丸間取り図永井家時代本丸間取り図(戻る)

浅野家時代本丸復元模型浅野家時代本丸模型(戻る)

古赤穂城の特筆事項

天守閣がない訳

赤穂0天守台

寛文元年(1661)に焼失した禁裏(御所)の造営を命じられる

設計者の近藤三郎左衛門と息子源八

近藤源八長屋

近藤三郎左衛門正純は甲州流軍学者小幡勘兵衛景憲門下、浅野家軍学師範で千石の家老、赤穂城の設計と築城責任者。生没は慶長八年(1603)から寛文二年(1662)で享年五十九歳。法名「真入院釈浄因」。

息子の近藤源八正憲は正純の弟の伝碩の子で養子。千石を食む家老で刃傷事件当時は組頭の要職ながら仇討ちには最初から不参加。

源八正憲の妻は大石内蔵助良欽の長女で大石内蔵助良雄の叔母にあたる人。開城後は付近の中村に浪居して生涯を終えその子孫も不詳です。墓所は随鴎寺

山鹿素行と赤穂藩浅野家

山鹿素行銅像

三十一歳の時(1回目)
浅野長直は承応元年(1652)に三十一歳の山鹿素行を千石の高禄で招聘し江戸を拠点に藩士の教育に力を注ぐ。承応二年(1653)八月から約七か月間赤穂に滞在して築城中の二の丸虎口の設計を行う。
四十五歳の時(2回目)
寛文六年(1666)「聖教要録」の著述で筆禍にあい、十年間赤穂に配流となり二の丸の大石頼母助邸で暮らした。その間、赤穂藩士は直に武士道の真髄を学ぶことができ、討ち入りに加わった門下生は大石内蔵助以下十余人を数えます。 画像は二の丸山鹿素行座像

令和赤穂城

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