福泉寺 茅野和助の子猪之吉の墓と文久事件
寛文五年(1665)に開創された法華宗の寺院。境内には
茅野和助の父及び子猪之吉の墓があるほか、大石頼母の書簡が伝えられている。
河原駱之助の墓
文久事件で藩政から退けられた村上真輔の次男河原駱之助が領外へ立ち退く途中、襲撃の企てがあることを知りここ福泉寺で自害し、境内に墓がある。
文久事件と福泉寺
日本最後の仇討ち事件
[高野の復讐]とも呼ばれるこの事件は文久二年(1862)十二月九日に赤穂森藩国家老森主税と用人村上真輔を藩政の主導権争いから藩士十三人が襲い暗殺します。
事件により藩政(博文館教授)から追放された村上真輔の次男河原駱之助は暗殺の企てがあることを知り逃れるすべもなく菩提寺の福泉寺で親戚列座読経のうちに自刃して果て、境内に墓があります。
明治4年に維新政府は村上真輔に雪冤無罪を達し、それを受けた息子ら七人が高野山にある森家廟所の守護を命じられた暗殺に加わった六名を途中の作水峠で待ち伏せして殺害し仇を討ちました。
この事件が契機となり時の政府により「
仇討禁止令」が発布されます。画像の墓は加害者の青木彦四郎ら事件後に自害した三士の墓で mapcode 114 002 537 にあります。