縁起
赤穂市キャラクター「陣たくん」
正保二年(1645)に浅野長直が両親の菩提寺として建立、その法号から「台雲山華嶽寺」と命名。
宗派は曹洞宗永平寺の末寺で浅野家以後に赤穂藩主となった永井家、森家の菩提寺にもなっている。
開山は秀厳龍田和尚。境内にある義士宝物館には赤穂藩や義士に関する資料が多数保存され、質量ともに第一級です。
花岳寺と大石内蔵助
大石内蔵助は赤穂城を元禄十四年四月十九日に幕府に明け渡し、現赤穂市尾崎の「
おせど」に家族と共に一時期仮住まいした。残務整理のため執務地の遠林寺(現廃寺で
随鴎寺の西にあった)まで通います。残務整理を終えた大石内蔵助は六月二十四日に浅野内匠頭の百箇日法要を花岳寺でおこない翌、二十五日に隠棲先の京都山科に船で旅立ちます。
名残の松
赤穂を去る大石内蔵助
初代の松は昭和二年(1927)に松枯れし現在は二代目。初代の切り株が境内千手堂に保管されています。元禄四年(1691)に相生村から移植した松の樹齢は310年の大木でした。浅野家が断絶し、大石内蔵助が赤穂を立ち去る時、大石家先祖の墓に詣でこの松のもとで名残を惜しみ旅立ったことが名前の由来になっています。鳴らずの鐘
悲嘆にくれる町民
この鐘は、赤穂浅野家二代の藩主で、切腹した長矩公の父にあたる長友公が、その父長直公の菩提の為に奉納されたもの。元禄十六年(1703)二月四日
赤穂四十六士が江戸で切腹した知らせが赤穂に届いた時、町民が昼夜鐘を撞き尽くして鳴らなくなったと伝わります。寛政年間(1789から1801)に改鋳され、鳴らずの鐘が今は鳴っていることから、赤穂七不思議の一つになっています。
宝物館・扶持離れの釜
凶変を予感した内蔵助
浅野長矩公の勅使接待の大任の労苦を慰めるべく、
大石内蔵助は赤穂にあって遙かに茶を点じ、まさに献じようとした時、突然釜の縁が離れた。四日半後に
江戸城松の廊下での刃傷事件の凶報が届き、縁(扶持)が離れた事を知った内蔵助が花岳寺に納めて冥福を祈ったとされ、赤穂七不思議の一つになっています。館内は撮影禁止・画像は山門の山号大額です。