猪之吉墓:赤穂福泉寺
茅野家系図
その孫の茅野武助常宣(のち玄安と称す)は藩主伯耆守森長武との間に確執があり禄を捨てて河辺村に隠棲する。それを聞いた赤穂城主浅野長矩が招いたが武助は固辞して動かなかったと「岡山県人名辞書」にある。
家紋:角松葉
石板:赤穂市
討ち入り姿
赤穂藩では新参で軽輩ながら義に厚く神崎与五郎とともに義盟に加わった。開城後も赤穂に残ってひたすら時機の来るのを待ち、山科に於ける連判にもその名が見えることからしばしば山科へも行ったと思われる。
元禄十五年十月四日、間瀬久太夫、小野寺十内、大石瀬左衛門らと江戸に下り礒貝十郎左衛門と同居して吉良邸の偵察に努めた。
槍は屈指の使い手で、自眼流居合をよくし、討ち入り時には得意の半弓を使って奮戦した。歌道は禿峰と号して秀句が多い。
十二月二十一日お預け先の水野家中屋敷で藩主水野監物に引見された時、水野家の厚遇に感謝して「日あたりや雪吹のけて梅を先ず」と俳句で謝意を表しています。
[天地の外にあらじな千種だに本さく野べに枯るゝと思へば] 泉岳寺の僧に応じて(白明話録)
遺言は不詳です
亡くなった父にお悔やみを寄せた神崎与五郎への礼状です。共に元美作津山藩の森家中だった両家が懇意であった証しだとのコメントが付してありました。
独り言
両家が懇意であった証が他にもありました。同じ古文書のなかに神崎与五郎の借銀証文があり、なんと茅野和助が連帯保証人になっていたのです。元禄十二年師走のことでした。どんな事情があっての借金なのかは不明ですが、なんともほほえましく往時の両士を偲ぶことができました。
生年
| 家系
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変名
| 仮寓
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刀
| 討入
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