浪人した大石内蔵助と家族が仮住まい

赤穂ではこの地を「おせど」と呼ぶ
赤穂八幡宮の東すぐにあり、
大石内蔵助が
赤穂城開城の残務整理をする元禄十四年五月七日から山科へ移る六月二十五日までの間、家族と共に仮住まいした所です。この地は平成9年(1997)に赤穂市指定文化財に指定されました。
おせどと大石内蔵助

開城の準備と残務整理のため
ここから執務所の遠林寺に通いました。忠僕八助との別れの逸話もこの地でのことと伝わります。
遠林寺住職浅野家再興に奔走
浅野家の祈願所として米三十五石が給付されており、大石内蔵助は住職の裕海を江戸に派遣して真言宗の僧のツテから綱吉の母、桂昌院の力を借りて浅野家再興を画策しましたが失敗。遠林寺は
随鴎寺の西隣りにありましたがその後、廃寺になっています。
伝大石内蔵助仮寓地跡

「おせど」の名で知られ、瓢箪池や、大石内蔵助が祀った稲荷社、赤穂城にあった牛石・馬石が残されています。残された書状には大石内蔵助が残務整理のため加里屋にあった遠林寺に朝八時に出勤し、夕方四時に退庁したとあり、徒歩通勤のため、運動になってよいといったことも書かれています。この仮寓地跡は、日本史上著名な元禄事件の主役である大石内蔵助に関係する土地で、史跡として非常に価値の高いものです。 出典:赤穂市教育委員会
見所

大石内蔵助が勧進したという稲荷社(大石稲荷)、昭和6年(1931)に建てられた「大石良雄仮寓地」の石碑があり、「ひょうたん池」や井戸跡の遺構が往時の庭を伝えています。
また「牛石(画像)」「馬石」と呼ばれる巨石があり、もと赤穂城本丸の庭園にあったもので、この石は薩摩の島津家から浅野家に贈られたものといわれています。