大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)
両親と兄弟・家紋
家紋:右二つ巴
石板:赤穂市内
父:良昭
三十四歳で早逝の為、内蔵助良雄は祖父内蔵助良欽の養子となり家督を継いだ。
母:クマ
備前池田家の家老池田出羽由成の長女。元禄四年三月四日に京滞在中に病没。綿屋善右衛門の世話で京都寺町仏光寺上ル聖光院に葬られる。戒名:松樹院殿鶴山栄亀大姉
弟:専貞(八幡山大西坊)
元禄十一年八月二十二日没 三十九歳
弟:良房(喜内)
元禄五年十二月三十日没 二十二歳
容姿について 意外でした!
傍系大石家の記録や「半日閑話」には一体のつくりが痩せ形で梅干しを見るようだとあり、
収監先の細川家世話役の「堀内伝右衛門覚書」には「手甲や小袖が常人に使用にならぬほど小さい」とあって小柄で貧相な人であったようです。
人柄について あだ名は昼行灯
赤穂市役所
義士の手紙
小野寺十内から京都小野寺十兵衛宛で「内蔵助儀家中一統に感心せしめ候て進退をまかせ候と相見え申候。年若に候えども少しもあぐみ申す色も見え申さず、毎日終日城にて万事を引き受けたじろぎ申さず滞りなくさばき申候」とある。
栗山潜峰(史家学者)
忠義碑の碑文に「人なり温寛にして度あり、齷齪(あくせく)と自らを用いることを為さず」とある。
井上団右衛門の言葉
団右衛門は本家広島浅野から開城を見届けに来た用人
「如何にも常人の人と相見え申さず、内蔵助などと片名を呼び申す仁体に相見え申さず候、是非内蔵助殿と唱え申さず候ては成り申さざる様に相見候」とある。
三宅観欄
人柄について「人なり和易簡樸、衿飾を喜ばず、国老に任ずと雖も事に預かること鮮(すくな)し、而も内実剛潔にして忠概を存し、最も族人に厚し」とある。「烈士報讐録」
思想について 主君を不調法至極
浪人姿
討入り趣意書の中で内蔵助は、主君である
浅野内匠頭長矩の
殿中刃傷事件に対し「時節場所をも弁へざる働き、不調法至極」と書き入れさせているのは私情にとらわれぬ考え方で「人々心得之覚」や「起請文前書之事」にも一端がうかがえる。
剣術について(異説あり)
奥村権左衛門重旧は無我と号して美作、備前、備中、播磨、四国と歴遊して池田・浅野・松平らの許で藩士に東軍流の剣を授ける。
門弟は五百余人で内蔵助の叔父大石平内が松平讃岐守に仕えた関係と海上交通の地理的な関係もあったと考えられ、赤穂藩からは大石瀬左衛門や潮田又之丞も修業している。
万治二年(1659)の生まれで大石内蔵助とは同年だった。元禄四年(1691)五月十三日付 奥村権左衛門宛の手紙「東軍流剣術再度御教道願い上げ度き存念に付き」とし、殿様へのお暇乞いを得て先生の許へ推参仕り度いと伺いを立てる。同年八月に高松へ渡り翌年、三十四歳で東軍流免許皆伝を得る。
山鹿素行について 武士道を直に学ぶ
討ち入り姿
素行が反朱子学の罪に問われて赤穂に配流されたのは寛文六年で、それから延宝三年まで八年九ヶ月(45歳~54歳)に及ぶ。
大石内蔵助が八歳から十七歳の多感な時期であったこと、同じ城内に住んでいたこと、山鹿素行の配居に十年間内弟子として学んだ二歳年長の磯谷平介が学友に選ばれていることなどから、山鹿素行の感化を受けたことは容易に想像できる。
経済感覚について 仇討ち費用支出決算
瑤泉院(浅野内匠頭の正室阿久利)付家老、落合与左衛門に奥方御化粧料なる預かり金の使途明細を誌した「
金銀請払帳」を元禄十五年十一月二十九日に差し出している。
- 受け取りや証拠が添えてあった
- 収支不足分の七両一分を自払いしている
- 自分用事には「仕候儀御座なく候」と書き入れている
- 自身の藩札は金銀への交換をしなかった
これらの事柄から実直で、些事に拘泥しないように見えて実は経済の念に大変優れた人であったことが窺え、山鹿素行に「金の計算のできない侍は何をさせても駄目」というのがあり、討ち入り資金の管理に生かされていて見事です。
預け先 肥後隈本藩細川家
泉岳寺の墓
戒名:忠誠院刃空浄剣居士
遺言
大石内蔵助の墓
切腹の前に
[別にしたためるほどのことではないが今夏参勤交代で熊本へ下られる時にでも私の弟の大西坊が城川八幡にいるから、今日のこの好天に、心晴れやかに相果てたとお伝え願います。そうすれば但馬にいる次男のほうへも通ずると思います]
辞世の句
泉岳寺で亡君の墓前に
吉良上野介の首を供えて
[あら楽やおもひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし]
[かかる]は[翳る(かげる)]の説があります。
[あら楽し]は[江赤見聞記]、[介石記][義人遺草]では「あら楽や」になっています。
刀 刃こぼれあり
則長二尺八寸金拵え・脇差則長二尺在之。備前清光、康光の異説がある。
堀内伝右衛門覚書によると「相州物の大乱れ刃で脇差は松葉先一尺ほと血糊の跡があって、刃こぼれがあり定めて上野介殿のとどめを刺されたるものと察し申し候、脇差は『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』と大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」とある。