本姓は藤原氏
藤原秀郷から出ていると云われる。秀郷が関東に赴き平将門を討ったとき、一子を近江の国栗太郡大石庄に留め、地名を氏としたとされる。
家紋:右二つ巴
浅野家との縁
大石良勝は浅野長政や浅野長政の三男長重に仕え、大坂の役で敵の首級を二つ挙げ、その後次第に重用され千五百石の家老に抜擢される。
家紋
両親と兄弟
- 父:権内良昭 三十四歳で早逝の為、内蔵助良雄は祖父内蔵助良欽の養子となり家督を継いだ。
- 母:クマ 備前池田家家老池田出羽由成(名門)の長女で元禄四年三月四日に京滞在中に病没。綿屋善右衛門の世話で京都寺町仏光寺上ル聖光院に葬られる。戒名:松樹院殿鶴山栄亀大姉。
- 弟
専貞(八幡山大西坊) 元禄十一年八月二十二日没 三十九歳。 - 良房(喜内) 元禄五年十二月三十日二十二歳で病没。
大石内蔵助良欽(よしたか)
父良勝の後を嗣いだが、子の大石権内良昭が早逝した為、その子大石内蔵助良雄(よしたか)が祖父良欽の養子になり後を継いだ。
大石頼母助良重
大石内蔵助良欽の弟良重(妻は浅野長直の長女)は一家を興し長恒、長武の二子を得る。
- 長子長恒を養子に迎えた浅野長直は赤穂郡若狭野三千石を分与して旗本の士に列し元禄十三年従五位下で美濃守と称した。
- 次子長武は加東郡三千五百石の浅野家の分家長賢の養子となった。
大石八郎兵衛信云(のぶこと)
石板:赤穂市内
大石内蔵助良勝の弟信云は父兄の縁故により浅野長重に仕え大坂の役で功を立て長男を大石五左衛門良総、次男を八郎兵衛信澄という。兄の良総は浅野家に仕えたあと浪人し江戸に住んで吉良討ち入りを支援した大石無人となる。その子郷右衛門良麿が津軽家に仕えることになる。
次男信澄の次男が大石瀬左衛門
信澄は浅野家に仕えて四百五十石
- 長男を大石孫四郎信豊といい三百石を受領
- 次男が大石瀬左衛門信清(のぶきよ)で百五十石を食み一家を成した
容姿について
意外でした!
傍系大石家の記録や「半日閑話」には一体のつくりが痩せ形で梅干しを見るようだとあり、
収監先の細川家世話役の「堀内伝右衛門覚書」には「手甲や小袖が常人に使用にならぬほど小さい」とあって小柄で貧相な人であったようだ。
人柄 あだ名は昼行灯
木像:赤穂市役所
小野寺十内の手紙- 京都小野寺十兵衛宛で「内蔵助儀家中一統に感心せしめ候て進退をまかせ候と相見え申候。年若に候えども少しもあぐみ申す色も見え申さず、毎日終日城にて万事を引き受けたじろぎ申さず滞りなくさばき申候」とある。
- 栗山潜峰(史家学者)
- 忠義碑の碑文に「人なり温寛にして度あり、齷齪(あくせく)と自らを用いることを為さず」とある。
- 井上団右衛門の言葉
- 団右衛門は本家広島浅野から開城を見届けに来た用人で★
- 「如何にも常人の人と相見え申さず、内蔵助などと片名を呼び申す仁体に相見え申さず候、是非内蔵助殿と唱え申さず候ては成り申さざる様に相見候」とある。
- 三宅観欄
- 烈士報讐録の中で「人なり和易簡樸、衿飾を喜ばず、国老に任ずと雖も事に預かること鮮(すくな)し、而も内実剛潔にして忠概を存し、最も族人に厚し」とある。
思想について
浪人姿の内蔵助
主君を不調法至極
討入り趣意書の中で内蔵助は、主君である
浅野内匠頭長矩の
殿中刃傷事件に対し「時節場所をも弁へざる働き、不調法至極」と書き入れさせているのは私情にとらわれぬ考え方で「人々心得之覚」(討入り訓令)や「起請文前書之事」(連判状前文)にも一端がうかがえる。
刀(吉良邸襲撃の時)
刃こぼれあり
則長二尺八寸金拵え・脇差則長二尺在之。備前清光、康光の異説がある。
堀内伝右衛門覚書によると「相州物の大乱れ刃で脇差は松葉先一尺ほと血糊の跡があって、刃こぼれがあり定めて上野介殿のとどめを刺されたるものと察し申し候、脇差は『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』と大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」とある。
剣術について
東軍流免許皆伝
奥村権左衛門重旧は無我と号して美作、備前、備中、播磨、四国と歴遊して池田・浅野・松平らの許で藩士に東軍流の剣を授ける。
- 門弟は五百余人で内蔵助の叔父大石平内が松平讃岐守に仕えた関係と海上交通の地理的な関係もあったと考えられ、赤穂藩からは大石瀬左衛門や潮田又之丞も修業している。
- 万治二年(1659)の生まれで大石内蔵助とは同年。
- 元禄四年(1691)五月十三日付 奥村権左衛門宛の手紙「東軍流剣術再度御教道願い上げ度き存念に付き」とし、殿様へのお暇乞いを得て先生の許へ推参仕り度いと伺いを立てる。
- 同年八月に高松へ渡り翌年、三十四歳で東軍流免許皆伝を得る。(異説あり)
山鹿素行の影響
討ち入り姿の内蔵助
武士道を直に学ぶ
素行が反朱子学の罪に問われて赤穂に配流されたのは寛文六年で、それから延宝三年まで八年九ヶ月(45歳~54歳)に及ぶ。
大石内蔵助が八歳から十七歳の多感な時期であったこと、同じ城内に住んでいたこと、山鹿素行の配居に十年間内弟子として学んだ二歳年長の磯谷平介が学友に選ばれていることなどから、山鹿素行の感化を受けたことは容易に想像できる。
「金銀請払帳」にみる経済感覚
とても優れた人
瑤泉院(内匠頭の正室阿久利)付家老、落合与左衛門に奥方御化粧料なる預かり金の使途明細を誌した「
金銀請払帳」を元禄十五年十一月二十九日に差し出している。
- 受け取りや証拠が添えてあった
- 収支不足分の七両一分を自弁している
- 自分用事には仕候儀御座なく候とあった
- 自身の藩札は金銀への交換をしなかった
これらの事柄から実直で、些事に拘泥しないように見えて実は経済の念に大変、優れた人であったことが窺え、★山鹿素行に「金の計算のできない侍は何をさせても駄目」というのがあり、討ち入り資金の管理に生かされている。
遺言
切腹の前に
「別にしたためるほどのことではないが今夏参勤交代で熊本へ下られる時にでも私の弟の大西坊が城川八幡にいるから、今日のこの好天に、心晴れやかに相果てたとお伝え願います。そうすれば但馬にいる次男のほうへも通ずると思います」
辞世の句
泉岳寺で亡君の墓前に
吉良上野介の首を供えて
[あら楽やおもひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし]
註:「かかる」は「翳る(かげる)」の説あり。「あら楽し」は赤穂義士事典にあり出典は「江赤見聞記」。「介石記」「義人遺草」では「あら楽や」になっている。
独り言 歴史に「仮」は禁物ながら、大石内蔵助なる指揮官がいなければ、四十七士の悲願は成就せず、日本三大仇討ち事件の一角が崩れていた。飛脚便と早籠の時代に江戸と赤穂の急進派と穏健派を束ね、活動資金を完璧に管理し、逆賊にならぬ緻密な計画と行動、討入隊の絶妙な編成など元禄の太平の世を駆け抜けた名将と称えても過言ではないでしょう。