赤穂事件年表(元禄十五年十一月~十二月)

吉良邸に討ち入り悲願を成就する

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赤穂義士年表その3サムネイル

仇討ちに必要な吉良邸の探索

討ち入り趣意書、収支決算書の作成、武具の調達から吉良邸へ突入、本懐を遂げて泉岳寺に引き揚げ亡君へ報告、四大名家に分散して収監されるまでの年譜を記しています。
年譜は4部で構成
[赤穂開城] [山科隠棲] [当ページ] [切腹と遺族]
元禄十五年十一月から十二月まで
元禄十五年
11月05日
大石内蔵助は平間村から江戸に入り、主税のいる石町三丁目の小山屋弥兵衛方に同宿する
11月7日
11月8日
署名連判する
  • 討ち入り起請文を書き一同連判する
  • 大石内蔵助は吉田忠左衛門原惣右衛門等と討ち入り綱領、条目を作り同志に配布
  • 討ち入り趣意書の草稿を書く
11月19日大高源五は難波の呉服商人脇屋新兵衛と称して吉良邸情報収集の為、山田宗偏に入門する
11月29日収支決算書提出
大石内蔵助は預り金を決算した「預置候金銀請払帳」を瑤泉院の用人落合与左衛門に提出
12月02日大石内蔵助は同志を深川八幡の旗亭に集めて最終の打ち合わせをする
12月05日この日を決行日としたが将軍綱吉が柳沢邸に来ると分かり中止。同志の脱盟が相次ぐ
12月10日決行日決定
十四日に吉良邸での茶会があり、吉良上野介の在宅を確認し、十四日に決行と決まる
12月11日この日欠落した毛利小平太が最後の脱盟者となる
12月13日同士は三々五々泉岳寺の亡主の墓に詣でたあと、夜半に本所の三ヵ所に集合して武装
12月14~15日
吉良邸討ち入り四大名家に収監浪士たち泉岳寺へ
  • 午前四時頃に吉良邸の表と裏門より襲撃して吉良上野介の首を挙げ六時頃に本懐を遂げる
  • 九時前に泉岳寺に着き長矩の墓前に復讐を報告する
  • 引き揚げの途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門は大目付仙石伯耆守の官邸に自訴する
  • その夜、四十六人を仙石邸に召喚した幕府は四大名家に分けて収監することを決定する
  • 肥後熊本藩
    細川越中守綱利に十七人

    大石内蔵助 吉田忠左衛門 間瀬久太夫 片岡源五右衛門 小野寺十内 原惣右衛門 堀部弥兵衛 礒貝十郎左衛門 潮田又之丞 富森助右衛門 近松勘六 矢田五郎右衛門 奥田孫太夫 早水藤左衛門 赤埴源蔵 大石瀬左衛門 間喜兵衛
  • 伊予松山藩
    松平隠岐守定直に十人

    大石主税 堀部安兵衛 中村勘助 木村岡右衛門 不破数右衛門 菅谷半之丞 千馬三郎兵衛 岡野金右衛門 貝賀弥左衛門 大高源五
  • 長門長府藩
    毛利甲斐守綱元に十人

    岡島八十右衛門 吉田沢右衛門 武林唯七 倉橋伝助 村松喜兵衛 杉野十兵次 勝田新左衛門 前原伊助 間新六 小野寺幸右衛門
  • 三河岡崎藩
    水野監物忠之に九人

    間十次郎 間瀬孫九郎 奥田貞右衛門 矢頭右衛門七 村松三太夫 茅野和助 横川勘平 神崎与五郎 三村次郎左衛門
12月16日細川越中守激賞
  • 午前二時頃に細川邸に着き細川越中守は直ちに引見し「今日の仕方神妙なり」と激賞
  • 泉岳寺にあった吉良上野介義央の首を吉良家に返す
  • 四家より浪士の待遇につき老中に伺い書を提出する
  • 松山藩松平家は預り人の十人を三田の中屋敷に移す
12月19日吉良左兵衛は父の吉良上野介を牛込万昌院墓地に埋葬する
12月21日三河岡崎藩主の水野監物は間十次郎らの預り人に面会する
12月23日「評定所一座存寄書」に幕府評定所員が連署して一党の処分案を上申する
12月24日松山藩は松平家預り人の小屋を普請し二十五日に預り人を二小屋に分ける
12月28日叱責され切腹
元赤穂藩士(千石)で浪人の岡林杢之助が兄の屋敷にて切腹する。討ち入りに加わらなかったことを兄弟に責められての自刃であった
12月29日長門長府藩主の毛利甲斐守綱元が預り人と面会する
12月下旬小山田一閑は息子の元赤穂藩士小山田庄左衛門(百石)の脱盟を憤り自刃する

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