吉田家系図
家紋:丸に剣花菱
大石内蔵助は言語明晰で雅量広い忠左衛門に復讐計画、軍令、覚書、口上書などの殆どを任せた。
伊藤十郎太と長女、おさんは忠左衛門の切腹後、遺族や寺坂吉右衛門夫婦までも引き取り、国替えの北陸や東海へも伴い永く面倒をみた。
独り言 吉田忠左衛門といえば寺坂吉右衛門の主人として知られる。吉良襲撃の前に逃げた等不名誉な諸説のなか、親戚筋の手紙から裏切者ではなかったことがみえてくる。宝永七年(1710)二月五日の手紙に「寺坂吉右衛門の身の上気の毒である」 出典:赤穂義士事典 この短文、値千金に思える。
討ち入り姿
部屋という部屋を悉く探したが吉良上野介は見つからない。
忠左衛門は「必定裏手にこそあれ、よくよく探して逃がすまいぞ、夜が明けても探すべし」と大声で叱咤した。これに励まされた浪士たちは炭小屋に潜む上野介を見つけ出し首をあげることができた。
両人共打果申候。上野介殿も脇差ぬきてふり廻し申候処を、十次郎槍をつけしるしをあげ見申候得ば、古疵の様子白小袖上野介殿らしく、吟味仕候得ば上野介殿に極り申候。寝間を見申候所、刀計御座候て、ふとんもあたゝかに誰今迄寝候て被居候様に見へ申候]
石板:赤穂市内義士の遺子一覧
[娘婿の伊藤十郎太が姫路藩本多中務様の江戸藩邸にいるので今日の様子をお伝え願いたい]
[君が為思ひぞ積る白雪をちらすは今朝のみねの松風] 兜の裏につけた詩(義人遺草)
生年
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変名
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刀
| 討入
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