容貌は「いもづらで猪首」だったらしいが、俳諧に秀で参勤交代の合間に詠んだ詩集を出す技量を有し、第一人者宝井其角とも交流があった。
父の兵左衛門が没したとき源吾は五歳で幼少の故と藩の財政状態も逼迫していた時期でもあって十分の一の禄となった経緯がある。人格高潔にして教養が豊かなのも肯ける。
家紋:三盛亀甲中に花菱
また、堀部安兵衛らの江戸急進派鎮撫の使者も務めている。源吾は文雅にたしなみ、俳諧は水間沾徳の門人であり、俳号を子葉という。室井其角や国学者の羽倉斎(荷田春満)とも親交があった。
著書の「丁丑紀行」や「俳諧二つの竹」が有名である。また、茶人山田宗偏に弟子入りし、脇屋新兵衛と名前を替えて吉良家の情報を探った。
討ち入りは表門隊に属し、大太刀をふるって奮戦した。実弟の小野寺幸右衛門と叔父の小野寺十内、従弟の岡野金右衛門も討ち入りに参加している。
松平家へお預けとなったのち、宮原久太夫の介錯で切腹した。切腹直前に書き付けた辞世の句がある。梅を呑茶屋もあるへし死出乃山 赤穂義士会(転載)
★十二月十四日の討ち入りを決める一翼を担った。
独り言 松尾芭蕉は元禄七年(1694)十月十二日に大坂で亡くなり、遺言により江州木曽塚の義仲寺に埋葬された。芭蕉に「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句がある。松尾芭蕉を崇拝していた源吾はこの句を知っていて元禄十年参勤交代の帰途、芭蕉の墓に詣で「こぼるるをゆるさせ給え萩の露」と詠んでいる。「こぼれたのは」涙か、文人源吾が偲ばれる。
討ち入り姿
石板:赤穂市内
何かの事もみなみな前世の約束と思召し、いたく御嘆き遊ばれまじく候。何ぞ此節まで手馴れ候もの形見に送り上げ申し度く候へども、衣類等の様なるものは遣し難く、余りに垢つき候ままここ許にて兎にも角にも致し申す可く候。
肌に着け申候物にて御座候まま守袋進じまいらせ候。まことにまことに先立ちまいり候不孝の罪、後の世も恐しく存じ奉候へども全く私事に捨て候命ならず候まま其の罪御許し下されただただ兎にも角にも深く御嘆き遊ばされず御念仏頼み奉候。
刀は親父の御差し成され候刀にて御座候。刃のわたり二尺三寸程御座候大長刀持ち申候。此の度の事と存じ心のまゝに出で立申候。
人に勝れし働き仕る可く候とあっぱれ勇み申候まま此段少しも少しも御気遣ひ遊ばし下さるまじく候。「山を裂く刀も折れて松の雪]
生年
| 家系
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仮寓
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刀
| 討入
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