赤穂事件年表(元禄十四年六月~翌年十月)

大石内蔵助山科隠棲から江戸下向まで

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山科に隠棲した大石内蔵助

浅野家再興運動や仇討ち急進派の鎮撫、撞木町での放蕩を経て浅野大学の処分が決まり赤穂浅野家再興が断たれ吉良討ち入りを決断するまでの年譜です。
年譜は4部で構成
[赤穂開城] [当ページ] [討ち入り] [切腹と遺族]
元禄十四年六月から翌十五年十月まで
元禄十四年
06月28日
大石内蔵助は山科に到着し西の山に隠棲する
08月08日堀部安兵衛は大石内蔵助に手紙を送り復讐を促す
08月14日大石内蔵助は長矩の碑を京都柴野瑞光院に建て、衣冠を埋めて永代伺堂のため山林を寄付
08月19日吉良上野介転居 吉良屋敷図拡大吉良屋敷図
  • 吉良上野介は呉服橋の屋敷から本所松坂町の松平登助の上屋敷に転居を命じられる
  • 堀部安兵衛らは瑤泉院の御機嫌を伺い大石内蔵助に手紙で復讐を督促する
09月01日赤穂新城主決まる。幕府は野州烏山城主の永井伊賀守直敬に三万三千石で赤穂への転封を命じる
09月下旬大石急進派に悩む
大石内蔵助は江戸の急進派を慰留する為に原惣右衛門 潮田又之丞 中村勘助を下向させさらに進藤源四郎、大高源五を派遣する
10月20日大石内蔵助は奥野将監 河村伝兵衛 岡本次郎左衛門 中村清右衛門と江戸に向う
11月10日
  • 大石内蔵助は江戸の同志を前川忠太夫方に集めて、一挙断行を明年三月と決める
  • 出席者は潮田又之丞 中村勘助 大高源五 武林唯七 勝田新左衛門 堀部安兵衛など13名 (註)前川忠太夫は元浅野家出入りの日雇頭で屋号を「米屋」といった
11月14日不破数右衛門帰参
  • 大石内蔵助は泉岳寺の亡君の墓に詣でる
  • 大石内蔵助は浪人中の不破数右衛門の帰参を許し義盟に加える
  • 大石内蔵助は受城使の荒木、榊原の両目付を訪ね、浅野家再興の尽力を謝す
  • 大石内蔵助は麻布今井町の三次浅野家に居る瑤泉院を訪ねご機嫌を伺う
12月12日吉良上野介は致仕して左兵衛義周に家督を譲る。これで喧嘩両成敗の望みが断たれる
12月15日大石主税元服
大石松之丞は京都の山科に於いて元服し、大石主税良金と改める
元禄十五年
01月14日
萱野三平自殺
  • 大石内蔵助は京都瑞光院の亡主の墓に詣で帰路、寺井玄渓宅に立ち寄り会合する
  • 萱野三平重實(二十八歳)は忠と孝の板挟みに悩み摂州萱野村の自宅で自刃する
02月15日山科に於いて会議を開き浅野大学長広の処分の結果を待ちその後を決めることにする
03月01日武林唯七と不破数右衛門が江戸から大坂に来て原惣右衛門に義挙の早期実現を促す
03月13日14日浅野内匠頭一周忌法要
  • 赤穂花岳寺で浅野長矩の一周忌法要を行う
  • 神崎与五郎は旧領地の四民来詣し旧主を思うこと赤子の父母を慕う如くなりと「赤城盟伝」に記す
04月15日大石内蔵助は妻リクを離別し娘クウ、吉千代らを豊岡石束源五兵衛方へ出立させる
07月05日大石内蔵助の三男、良恭(大三郎)豊岡に生まれる
07月18日浅野家再興断念
遊興姿の内蔵助幕府は浅野大学長広の閉門を免じ広島の宗家浅野綱長に差し置きを命じる。これにより大石内蔵助悲願のお家再興の望みが断たれる。画像は遊興姿の大石内蔵助:赤穂義士祭
07月28日吉良討ち入り決定
大石内蔵助は同志十九名を京都円山に集め「円山会議」を開催して義挙の決行を宣言する
08月田中権左衛門、進藤源四郎 糟谷勘左衛門 岡本次郎左衛門 小山源五右衛門ら重臣が脱盟
09月19日大石主税江戸へ
大石主税は大石内蔵助より先に間瀬久太夫 大石瀬左衛門 小野寺幸右衛門 茅野和助 矢野伊助を従えて江戸に向かい二十四日に到着する
10月07日大石内蔵助江戸へ
大石内蔵助は潮田又之丞 近松勘六 早水藤左衛門 菅谷半之丞 三村次郎左衛門を従えて吉良上野介を討つ為に江戸に出立する

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