元禄赤穂事件の年譜その4

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四十六士を絶賛する世論 有罪無罪両論のなか、将軍綱吉は切腹を命じ四十六士は浪士から義士へと昇華します。吉良家のその後や遺子の処罰、遺族のその後についての年譜を記しています。

四十六士切腹と遺子や遺族のその後

元禄十六年(1703)一月以降の出来事
元禄十六年1月5日松山藩主の松平隠岐守定直が大石主税はじめ十人に面会する
01月13日三河岡崎藩主の水野監物忠之が間十次郎はじめ九人に面会する
01月22日幕府は四大名家に命じ浪士が自書した「親類書」の提出を命令する
01月26日
  • 「親類書」を各大名家より幕府に提出するが子供の年齢を書き添えるよう命じられる
  • 細川家では預り人の十名を「役者の間」に移す
01月27日四大名家より子供の年齢を書き添えた「親類書」が幕府に提出される
02月01日将軍綱吉は上野輪王寺宮公弁法親王を江戸城に呼び四十六人の処分につき意見を求める
02月03日幕府は四大名家に明日四日、預り人に切腹仰せ付けの旨を内示する
02月04日四十六士切腹

細川邸十七士切腹之図:赤穂義士実纂切腹の図

  • 幕府は四大名家に目付と使番を出し切腹を命じ午後二時に始まり午後五時頃に終わる
  • 四大名家が申し合わせた後、遺骸を泉岳寺に送り、亡主長矩の墓側に埋葬する
  • 幕府は三万石の信州諏訪高島城主、安芸守に吉良義周を領地に収監するように命じる
02月06日幕府は四十六士の遺児、十九人に流刑を宣告。但し十四歳以下の者は成長まで流刑を猶予
02月11日吉良左兵衛義周は左右田孫兵衛、山吉新八を伴い信州高島へ出立する
02月16日吉良左兵衛義周が信州高島に到着する
03月22日四十六士の墓碑が泉岳寺墓域に建つ
04月27日義士の遺児中、十五歳以上の村松政右衛門、吉田伝内、間瀬左太八、中村忠三郎の四人が佃島より伊豆大島に送られる。28日との説もあります
06月18日小野寺十内の妻「丹」が京都日蓮宗本山本圀寺で食を断ち自殺する
宝永元年09月29日1704年 大石内蔵助の長女クウが病死し豊岡に埋葬される
宝永二年02月12日1705年 吉良左兵衛義周が発病する
04月27日間瀬九太夫の次男、左太八(享年二十二歳)が大島で病死し元村に埋葬される
宝永三年01月20日1706年 吉良左兵衛義周二十一歳が信州高島で病没し吉良家が断絶する
01月28日赤穂森藩が誕生
赤穂城主の永井伊賀守直敬は信州飯山に移り、代わりに備中西江原領主の森和泉守長直が二万石で播州赤穂に転封を命じられる
02月04日幕府御書院番である石谷七之助が検使役となり吉良義周の死骸を見分する
09月16日義士の遺児で遠島になっていた吉田伝内と村松政右衛門が生還し江戸目白洞雲寺で出家
宝永六年01月10日1709年 五代将軍の徳川綱吉が病死する
03月01日大石内蔵助の次男、大石吉千代十八歳が豊岡で病死する
07月16日六代将軍徳川家宣が赤穂義士遺児の特赦を行う
08月20日浅野大学長広が差し置きの処分を解かれる
宝永七年09月16日1710年 幕府は浅野大学長広に五百石で寄合旗本への復帰を命じ赤穂浅野家が再興する
正徳三年10月01日1713年 浅野安芸守吉長は大石内蔵助の三男、大三郎を招き同月六日に千五百石で召し抱える
正徳四年02月28日1714年 大石内蔵助の次女ルリ、浅野長十郎との縁組みが許される
06月03日浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院が病没し同年六月六日泉岳寺に埋葬される
元文元年11月19日1736年 大石内蔵助室、香林院(理玖)六十八歳が広島で病没し国泰寺に埋葬される
延享四年10月06日1747年 寺坂吉右衛門信行八十三歳が江戸で天寿を全うし江戸麻布曹渓寺に埋葬される
明治元年11月05日1868年 明治天皇は勅使を泉岳寺義士墓前に遣わし、大石内蔵助良雄らに壽賞の宣旨を下し給う
明治三十三年07月1900年 赤穂城内三の丸に四十七士を祀る大石神社の創立の許可がおりる
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