事件の現場と行動図
元禄十四年(1701)三月十四日は五代将軍綱吉が勅使、院使に対し勅答する日であった。午前十時頃(巳の上刻)から午前十一時過ぎ(九つ前)に勅使接伴役の赤穂浅野藩五万石城主
浅野内匠頭長矩が高家筆頭の
吉良上野介義央を殿中松の廊下でいきなり小サ刀で
背後から切りつけ重傷を負わせる事件が発生した。この日は幕府にとって大切な日であったこと、江戸城内での刃傷であったことから五代将軍綱吉が激怒。
斬りつけの様子
松の廊下刃傷事件発生!
吉良迯げる! 梶川与惣兵衛筆記によれば「誰やらん吉良殿の後より此間の遺恨覚えたるかと声を掛け切付け申候。その太刀音は強く聞こえ候えども後にて承わり候えば存じのほか切れ申さず浅手にてこれあり候。
われらも驚き見候へば、ごちそう人の浅野内匠頭殿なり。上野介殿これはとて後の方へ振り向き申され候ところをまた切付られ候ゆえ、われらの方へ向きて逃げんとせられしところをまた二太刀ほど切られ申候」
吉良上野介の傷 失神する- 此間の遺恨覚えたるかと叫んでいきなり背中から切りつけた。
- 驚いた上野介が振り向いたところを更に額に一太刀きりつける。
- 烏帽子の金具で止まった額の傷は三寸五分から六分(約11センチ)、背中の傷は三針縫う程度。討ち入りの時には額の傷痕は残っておらず、背中の傷が本人確認の決め手となる。
栗崎道有のカルテ 傷の程度は?- 栗崎道有のカルテ(外科医で幕府典医)「ヒタイ スジカイ マミヤイノ上ノ 骨切レル 疵ノ長サ三寸五分 六針縫フ。背疵浅シ 然トモ 三針縫フ」とある。(1寸は約3.03センチ)
徳川五代将軍綱吉激怒
裁定三つの異常
午後一時頃に側用人の柳沢出羽守保明が綱吉に事件を伝えると激怒した将軍は始祖徳川家康以来の喧
嘩両成敗の不文律を破って浅野内匠頭には田村右京太夫にお預けの上即日の切腹、吉良上野介にはお構いなしを即断した。
不公平な裁き
この裁きが武士の面目をかけた「赤穂浪士討ち入り事件」を惹起する発端となる。
- 機敏、迅速であり過ぎたこと
- 喧嘩両成敗でなかったこと
- 即日の切腹とお家断絶は幕府裁定の三つの異常とされる
梶川与惣兵衛加増 世間は非難
- 額に斬りつけた処を大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照が羽交い締めにして取り押さえる
- 梶川与惣兵衛頼照は当時五十五歳で七百石取り。功により五百石の加増を受ける。
[抱きとめた片手が二百五十石] 世間は武士の情けを知らぬ仕打ちと非難