家系
原・岡島家系図
家紋:角内立葵(異説有)
石板:赤穂市内
祖父と両親
祖父
- 原陣右衛門は元出羽の最上家に仕えていたが、最上家改易によって浪人する。
父
- 原七郎左衛門定正は吉良上野介の妻の兄、上杉播磨守綱勝に仕えたがのち浪人。
母
- 和田帯刀の娘。せがれ惣右衛門の仇討ちを促す為に自殺したとする説があるが、史実と異なる。原惣右衛門の実弟、和田喜六方で元禄十五年八月十一日に八十二歳で病没している。
妻子
妻
- 赤穂藩士の長沢家から迎え、女子五人・男子二人を産み没する。男子の一人は嬰児のうちに死亡、一人は女児との双子で里子に出し僧侶となる。
後妻
- 因州池田藩より迎えて一子重次郎(後の惣八郎)を得るが離婚。
後妻
- 姫路本多家の水野玄覚の妹と再婚。享保十八年(1733)七月没。墓所は円隆寺で戒名「好祐院妙養日源」、惣右衛門との連名で長男の惣八郎が建墓した。
養子
- 兵太夫 本多中務大輔家中より養子をとる。実子の誕生で気兼ねして逐電し後不明。
長女
次女
三女
四女
長男 重次郎 浅野本家で槍奉行に出世
討ち入り当時五歳、罪が及ぶのを心配して谷町長久寺住職に頼んで弟子入りし名を「春好」と改めた後、還俗して「惣八郎」と名乗る。
★惣八郎は十五歳になって安芸浅野本家に出仕することになり母や姉たちと広島に移り三百石取りの槍奉行にまでなっている。明和六年(1769)八月没、享年七十一歳、墓所は円隆寺、戒名は「本理院観識義道居士」
独り言
加賀百万石の支藩で越前との国境に十万石の大聖寺藩がある。台所役人として仕えた原惣右衛門に不始末があり追放、のち赤穂に来たと「米沢地名選」にある。子供時代を大聖寺で過ごした私はお城のあった錦城山でよく遊んだ。それだけのことで惣右衛門を身近に感じるから人は不思議だ。真偽のほどは不明と赤穂義士事典にある。熱心な日蓮宗徒で赤穂高光寺とのゆかりが深い義士です。
原惣右衛門は、
大石内蔵助の参謀として、一挙の計画、遂行に多大の貢献があった。
元禄十四年三月十四日は、江戸城竜の口の伝奏屋敷に詰めて待機していたが、
主君刃傷によって引揚げを命ぜられるや、わずかの時間に伝奏屋敷の家財道具を運びだしたその手腕は見事であった。また、その夜のうちに、
内匠頭の切腹の報などを伝える第二の早使いとして、
大石瀬左衛門とともに赤穂へたち、五日間で大石内蔵助に伝えて大役を果たした。
江戸に出てからは、和田元真と変名し、
吉田忠左衛門らとともに内蔵助の指示のもとに吉良邸討入りの作戦の立案にあたった。
元禄十五年十二月十四日の討ち入りには、
表門隊に属し奮戦した。のちに
熊本藩主細川家にお預けとなり、翌年二月四日増田貞右衛門の介錯で切腹した。
赤穂義士会(転載)
浅野内匠頭切腹を知らせる使者となる
討ち入り姿早籠の仕組み
早籠使者は信頼の証
江戸城での刃傷事件発生を赤穂に知らせるため大石瀬左衛門信清と急ぎ発つ。
書状の内容 [大石内蔵助殿、大野九郎兵衛殿、岡林杢助殿、外村源左衛門殿、奥村将監殿、伊藤五右衛門殿、玉蟲七郎右衛門殿 一筆申入候、今般土屋相模守殿より采女正美濃守へ如斯の以御書き付被仰渡候間其元家中侍中末々迄並に町在り中に至る迄騒動不仕物静かに仕り罷在候様に急度可申渡候。右之通り被仰渡候間、重て被仰付有之まで物静かに仕り罷在り、尤も火の元入念候様に可被申付候。此上は大学殿為にて候間此趣家中面々に可申渡候恐々 三月十四日 浅野美濃守 浅野大学 戸田采女正]
起請文前書と討入り実況書
文筆家で大石内蔵助の参謀を務める
[起請文前書]
吉田忠左衛門が立案したものに加筆する。
[討入り実況書]
討入りから四家へお預け迄の記録。元禄十五年十二月二十四日付で大石内蔵助、
小野寺十内と連名で原惣右衛門が書いて寺井玄渓に送った書簡。
吉良邸での戦闘で負傷
討ち入りの時、表門から突入して足をくじき泉岳寺への引き揚時に駕籠を使った説がある
遺言
原惣右衛門の墓
細川家世話役の堀内伝右衛門に
「[討入り実況書]を内海道億にお渡し下さい」
と頼み切腹の座についた。
内海道億:浅野家の医師で浅野家断絶後は京橋に住み、復讐の議にも加わるが思い止まり以後、浪士の治療や連絡役で貢献し大石内蔵助はじめ一同に信頼された人。辞世の句
義人録・鐘秀記・義人遺草に掲載
[かねてより君と母とに知らせんと人より急ぐ死出の山路]