角内立葵
独り言加賀百万石の支藩で越前との国境に十万石の大聖寺藩がある。台所役人として仕えた原惣右衛門に不始末があり追放、のち赤穂に来たと「米沢地名選」にある。子供時代を大聖寺で過ごした私はお城のあった錦城山でよく遊んだ。それだけのことで惣右衛門を身近に感じるから人は不思議だ。真偽のほどは不明と赤穂義士事典にある。熱心な日蓮宗徒で赤穂高光寺とのゆかりが深い義士です。
討ち入り姿
書状の内容
[大石内蔵助殿、大野九郎兵衛殿、岡林杢助殿、外村源左衛門殿、奥村将監殿、伊藤五右衛門殿、玉蟲七郎右衛門殿
一筆申入候、今般土屋相模守殿より采女正美濃守へ如斯の以御書き付被仰渡候間其元家中侍中末々迄並に町在り中に至る迄騒動不仕物静かに仕り罷在候様に急度可申渡候。右之通り被仰渡候間、重て被仰付有之まで物静かに仕り罷在り、尤も火の元入念候様に可被申付候。此上は大学殿為にて候間此趣家中面々に可申渡候恐々三月十四日 浅野美濃守 浅野大学 戸田采女正]
元禄十四年三月十四日は、江戸城竜の口の伝奏屋敷に詰めて待機していたが、主君刃傷によって引揚げを命ぜられるや、わずかの時間に伝奏屋敷の家財道具を運びだしたその手腕は見事であった。また、その夜のうちに、内匠頭の切腹の報などを伝える第二の早使いとして、大石瀬左衛門とともに赤穂へたち、五日間で大石内蔵助に伝えて大役を果たした。
江戸に出てからは、和田元真と変名し、吉田忠左衛門らとともに内蔵助の指示のもとに吉良邸討入りの作戦の立案にあたった。元禄十五年十二月十四日の討ち入りには、表門隊に属し奮戦した。のちに熊本藩主細川家にお預けとなり、翌年二月四日増田貞右衛門の介錯で切腹した。赤穂義士会(転載)
市内の石板
生年
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