家紋:から花
結果は道中で行き違いになり役目を果たせずに終り無能よばわりされ、非難される。室鳩巣は「義人録」の中で「多川・月岡是に於て使命を辱しむという可し、赤穂材なきに非ざる也。吉田・小野寺の練達あり、富森・神崎の勇幹あり。その他原・間・大高の徒皆選也。良雄(大石内蔵助のこと)是に於て人を知らずと云うべし」と述べている。
これに関して「赤穂義士実纂」の中で★斎藤茂先生は「何をか言わんやと申し上げたい。しかも多川九左衛門は小野寺(父子)・大高・岡野・間瀬・中村の義士達の一族である」と。
討ち入り姿
伊藤東涯が友人の並川天民(儒医)に出した手紙に十内のことを「かねて好人とは存候へども、か様ほどの義者に御座候とは思いかけず候」とある。
幸右衛門事も心易く思ひ給ふべし、我が歌にてあきらめ給へかし。『まよはじな子と共に行く後の世は心のやみもはるの夜の月』死ぬべきわれならば、故里も忘れたるらむかと思ひぬさるべきか。
此の歌此の頃思ひ付き候まま申し入れ候。膳ぶに色々の春の野菜出されたるをみて『武蔵野の雪間も見えずふるさとのいもが垣根の草も萌ゆらむ』(後略)(前略)そもじは引きとるべき身よりもなし。あはれとや申さん。
えこういん殿へ御心得頼み入り申し候。いかさま書きても尽すまじければこれまでに候。親子とも腹切って死にたりといふ左右ほどなぅ聞え申すべく候。★何事も人界の常なきを悟り申され候より外あるまじく候]
石板:赤穂市内
山鹿素行の教訓中に「夫婦は色をもって結ぶべからず、色衰えてはその道やみ互いの愛も消ゆるもの」とある。
小野寺十内切腹後の丹は夫と倅、義理の甥大高源五、岡野金右衛門の名を彫んだ墓石を東山仁王門通り西方寺に建てて一族の冥福を祈り、四十九日の仏事をすました後、京都猪熊五条下ル日蓮宗木国寺の塔中了覚院で絶食して自らの命を絶った。
命日は元禄十六年六月十八日、戒名は梅心院妙薫日姓信女、墓所は京都市左京区今堀川傍の久成院。独り言 夫、養子の倅、甥の仏事一切を済ませて絶食して後を追っています。絶食については「自刃」説もあって確定に至っていないようです。江戸で耐乏生活をする夫に宛てた手紙にある詩「筆の跡みるになみだのしぐれきていひかへすべき言の葉もなし」・・・夫婦はこうありたいものです。
生年
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変名
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刀
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