

おのでらじゅうない ひでかず
京都留守居役で恩義ある
浅野家に忠義を尽くすのは当然と、息子と義盟に加わります。文学を好み和歌をよくした。仇討ちのため江戸に発つとき
「おきわかれ今朝うち渡る加茂川の 水の煙は胸に立ちそふ」里菴(雅号)。
夫婦の絆が強く妻も歌人で夫亡きあと自殺しますが残した詩は深く心に残ります。
独り言後追い自殺の絶食については「自刃」説もあって確定に至っていないようです。
江戸で耐乏生活をする夫に宛てた手紙に
「筆の跡みるになみだのしぐれきていひかへすべき言の葉もなし」いつの世も夫婦はかくありたいものです。
系譜と家系図と家紋
多川一族系図
家紋:から花
父
- 小野寺又八 笠間藩時代の浅野家に仕えており祖父十太夫は奥州三春藩士
母
妻
姉
息子
甥
甥
従弟
七名の義士を輩出
討ち入り姿
一族の多川九左衛門は収城目付に吉良上野介の処分(喧嘩両成敗)を願い嘆願使として江戸に派遣された人物で結果は道中で行き違いになり役目を果たせずに終り
無能よばわりされ、非難される。室鳩巣は「義人録」の中で「多川・月岡是に於て使命を辱しむという可し、赤穂材なきに非ざる也。吉田・小野寺の練達あり、富森・神崎の勇幹あり。その他原・間・大高の徒皆選也。良雄(
大石内蔵助のこと)是に於て人を知らずと云うべし」と述べている。
これに関して「赤穂義士実纂」の中で斎藤茂先生は「
何をか言わんやと申し上げたい。しかも多川九左衛門は小野寺(父子)・大高・岡野・間瀬・中村の義士達の一族である」と。
教養と性格
経学(古義学)を京都堀河の堀川塾で伊藤仁齋に学ぶ。伊藤東涯が友人の並川天民(儒医)に出した手紙に十内のことを「かねて好人とは存候へども、か様ほどの義者に御座候とは思いかけず候」とある。
妻へ多くの手紙を残す
切腹前日の手紙
[我等事御仕置にあって死するなれば、かねて申しふくめ候ごとくに、そもじも安穏にても有るまじきか。さ候はば予て覚悟の事驚き給ふ事も有るまじく、取り乱し給ふまじきこと心易く覚え候。(後略)(前略)幸右衛門事も心易く思ひ給ふべし、我が歌にてあきらめ給へかし。『まよはじな子と共に行く後の世は心のやみもはるの夜の月』死ぬべきわれならば、故里も忘れたるらむかと思ひぬさるべきか。此の歌此の頃思ひ付き候まま申し入れ候。膳ぶに色々の春の野菜出されたるをみて『武蔵野の雪間も見えずふるさとのいもが垣根の草も萌ゆらむ』(後略)(前略)そもじは引きとるべき身よりもなし。あはれとや申さん。
えこういん殿へ御心得頼み入り申し候。いかさま書きても尽すまじければこれまでに候。親子とも腹切って死にたりといふ左右ほどなぅ聞え申すべく候。何事も人界の常なきを悟り申され候より外あるまじく候]
夫婦共に歌人
石板:赤穂市内
夫:赤穂藩随一の詩人
金勝慶安(兼沢)門下で赤穂随一の歌人といわれ、多数の秀歌が遺されている。妻の丹も同門の歌人で「涙襟集」に丹との和歌贈答集が死後に編まれる。
妻:丹(お丹)後追い自殺
女流歌人で武具奉行百五十石の灰方佐五右衛門の娘。兄の藤兵衛の脱盟を憤って兄妹の縁を切っている。山鹿素行の教訓中に「夫婦は色をもって結ぶべからず、色衰えてはその道やみ互いの愛も消ゆるもの」とある。
小野寺十内切腹後の丹は夫と倅、義理の甥大高源五、岡野金右衛門の名を彫んだ墓石を東山仁王門通り西方寺に建てて一族の冥福を祈り、四十九日の仏事をすました後、京都猪熊五条下ル日蓮宗木国寺の塔中了覚院で絶食して自らの命を絶った。
命日は元禄十六年六月十八日、戒名は梅心院妙薫日姓信女、墓所は京都市左京区今堀川傍の久成院。
お丹の辞世二句
[夫や子の待つらんものを急がまし何かこの世に思ひ置くべき]
[うつつとも思はぬ内に夢さめて妙なる法の華にのるらむ]
預け先 肥後隈本藩細川家
泉岳寺の墓
戒名:刃以串剣信士
小野寺十内の墓
刀
道永 二尺九寸 脇差 国助 一尺八寸
辞世の句
[忘れめや百に余れる年を経て事へし代々の君がなさけを](涙襟集)
遺言
[弓削太郎左衛門が京都にいるから今日の様子をお伝え下さい。そうすれば妻のたんの方へも通じる]
小野寺秀和備忘録生年没年享年性格雅号変名仮寓- 京都東洞院仏光寺西入ル・江戸新麹町六丁目喜左衛門方・江戸石町三丁目小山屋裏店
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