家系図
家紋:丸に二つ割菊
両親と妻と子孫
逃亡説は誤り
昭和になり立証される!
昭和十一年に伊藤家(伊藤十郎太夫の末裔)から多数の資料が発見されたことや伊藤武雄著「赤穂義士寺坂雪冤録」、渡辺世祐博士の「義士講寅寺坂吉右衛門信行」で逃亡説は誤りであることが立証される。伊藤十郎太夫の書置には
泉岳寺の門前で「寺坂吉右衛門が泉岳寺境内に入ろうとした所、寺内に入ってしまうと外に出れないのでかねて吉田忠左衛門が申し含めておいたことが無駄になる。とのことで★十二月十五日午前十時ごろ一同と別れ、十二月二十九日には播州亀山に帰り着いた」とある。
吉田忠左衛門の暇乞い状には
二月三日、忠左衛門が切腹の前日に十郎太夫に送った暇乞い状には「・・・吉右衛門のことはよろしくお願いいたします。うかつなことはしゃべらないようにお願いいたします」とあり、討ち入り前に逃亡した不忠の士への言葉ではないことが分かる。
逃亡説誤りの根拠
- 四十六士が切腹するまで吉右衛門逃亡に関する記録が一切ないこと
- 主の吉田忠左衛門が存命中に逃亡して故郷の姫路には帰れない
- 八歳から主に仕え、ただ一人留まった律儀者が裏切って逐電する?
切腹を免れた理由諸説
- 大石内蔵助や吉田忠左衛門らは分限帳にも載らない足軽でありながら、討入に加わった吉右衛門を生かしてやりたかったとする説
- 浅野本家などへの生き証人の役割りを担ったとする説
- 足軽に助勢をかったと言われては武士の面目がたたないので逐電させた説がある
討ち入り姿
義士論 四十七士か四十六士か
四十七士論
- 論拠は吉良邸討ち入りの時に打ち立てた「浅野内匠家来口上書」に寺坂吉右衛門を含む47士の名があること。
四十六士論
- 論拠は四大名家へお預けとなり切腹した人の数(46士)による。
論争諸説 紛糾!
- 徳富蘇峰の「近世日本国民史」の元禄義士編で「寺坂は臆病風に襲われて一命が惜しいばかりに逃亡した」と非難
- 三宅観瀾は「烈士報讐録」で逃亡説をとる
- 荻生徂来は四十七士だが義士にあらずと唱える
- 太宰春台は荻生徂来よりも激しく反義士論を唱える
略歴 遺族にも仕える
石板:赤穂市内
- 延宝元年(1673)赤穂藩士吉田忠左衛門兼亮に仕え一時近松勘六行重の父、小右衛門行生にも仕える。
- 寛文三年(1686)主人兼亮が加東郡代の時に組下の足軽弓組となるが、江戸城での刃傷事件により赤穂浅野藩の改易後も主人につき従った。
- 吉田忠左衛門の小者(足軽)であったが忠左衛門の取り立てにより三両二分二人扶持弓組足軽として、内匠頭の家来の身分となったとする説もある。
- 討入り後は★吉田忠左衛門の遺族に仕え、遺族が姫路の伊東家(娘婿の家)に移った時、吉右衛門夫婦も同行し、藩主の本多家が三州刈谷に転封のときも伊東家及び吉田家遺族に随行している。
- 伊豆大島へ遠島の吉田伝内(忠左衛門の遺子)が赦免になると江戸に出迎え、江戸小石川の洞雲寺に伴い剃髪して恵学と称した伝内を、母たちが寄食している伊藤十郎太夫家の任地越後村上に連れ帰っている。恵学は同地の永昌寺で修業に入ったと記録にある。
- 享保二年(1717)忠左衛門の妻女が亡くなったのを期に五十一歳の時、伊東家を離れて江戸麻布の曹渓寺に寺男として勤め、延享四年(1747)八十三歳の天寿を全うした。
吉右衛門の詩 「二つの竹」に入収
- [うつくしい 顔に化粧や 花曇]
- [蓴菜(じゅんさい)に 何と踏出す 鴻の足](鴻はこうと読み、鳥の名でひしくい)
独り言 赤穂事件を様々な角度から見ても、浅野内匠頭の江戸城刃傷事件を除くと「なにこれ?」がない。全てが「すごいなぁ!」なのである。とくに寺坂吉右衛門にはそれが言え敬服する。欲を言えば生き証人として知り得た事実をもっと残してくれていれば・・・。なかには「なにこれ?」があるなど、今とは違った事件の展開になっていたかも知れない。