大石りく(大石内蔵助夫人)

大石りくサムネイル

大石りく

大石内蔵助は3部構成

妻と子供 蚤の夫婦?子供は大柄

小野寺十内の手紙に、大石主税は「せい五尺七寸」とあり、原惣右衛門の手紙に「年あひよりひね申候、器量能候」とあり、りく夫人の手記にも娘のルリが大振りであると述べている。広島市小町の国泰寺にあるりく夫人の墓誌銘にも人並みはずれた趣が書いてあり、子供らは母の骨格を受けて大柄、大石内蔵助の容姿を重ねると蚤の夫婦ということになる。

家族構成()内享年

妻 理玖(六十八歳) 長男 主税(十六歳) 長女 クウ(十五歳) 次女 ルリ(五十三歳) 次男 吉千代(十九歳) 三男 大三郎(六十九歳)

離縁 連座の処罰を恐れる

赤穂を去る家族離縁され赤穂を去る理久と子供

浅野大学(浅野内匠頭実弟)の浅野本家「差し置き」の処分が決まり赤穂藩浅野家再興の望を断たれる。敵討ち以外に選択肢がなくなり父子の罪が妻達に及ばないようにどうしても離縁しておく必要があった。
京都出立前に妻の父石束源五兵衛と妻の兄同姓宇右衛門に宛てた一文を認めて男山八幡の覺連に届け、自分が江戸入りしたのを見極めて豊岡に届けさせるよう依頼する。
山科から豊岡へ妻子を帰す時に離縁とする説があるが、東下りが決定した時が正しい。
元禄十六年浪士切腹のころ、豊岡京極家から幕府に差し出した公文書(元禄十六年二月五日)に「内蔵助妻去年午十月初旬離別」とあるのがその根拠になっている。

りく(理玖)のち香林院

大石りく大石理玖の画像

実家は豊岡藩京極甲斐守高住三万五千石の家老で京極家の血筋にもあたる譜代。父親の石束源五兵衛毎公(つねとも)は剛直で政数に明るい父の源五兵衛毎術(つねやす)の後をうけて源五兵衛の名跡と家老職知行千二百石を継ぎ長男は宇右衛門と称して三百石を食んだ。

浅野本家で厚遇される

大石内蔵助亡きあと剃髪して香林院と称し、本家芸州浅野家より終生百石をもらい大石内蔵助切腹から二十三年後の元文元年(1736)十一月十九日六十八歳で没し国泰寺に葬られる。
戒名 香林院花屋寿栄大姉

理玖の手紙その1

弘前藩大石郷右衛門宛 「広島から武林勘助(武林唯七の実兄)が三十人もの人数で迎えに来てくれ、豊岡からは叔父の佐々宇佐衛門が姫路まで妹婿の田村瀬兵衛が広島まで送ってくれた。豊岡出発は九月二十六日、雨にも遭わず十月一日に広島に着き、広大な屋敷と千五百石の知行を得た」との内容。

理玖の手紙その2

村尾なる女性宛 「何事もこの両人の子供に引かされ候て月日を送り申候。いとどさへ父親なく候へば子どもの作法も思はしからず候。男子は殊に母親の申す事はおろそかに聞き入り候。何卒人にも人と言わせ度く候。朝夕世話のみに紛れ暮らし候」

理玖の手紙その3

ルリの結納について 「おるり縁組み仰付られ候事は、先だって申し進んじ結構に仰付られ候。悦び申す御事。御察し下され候べく候。浅野長十郎殿より結納の祝儀も四月二十八日に参り候はずに御座候。一入(ひとしお)に悦びまいらせ候」

独り言 大石内蔵助や大石主税など四十七士の忠義に本家の安芸浅野家が厚遇で報いている。特に「理久の手紙その1」にある豊岡までの出迎えに如実にあらわていてホットする。再会の時、かっての主従はどんな言葉を交わしたのであろうか・・・

子供

長男 大石主税

次男 吉千代のち吉之進

数奇な運命をたどる。累罪を恐れた石束家一門は元禄十五年六月に松平伊賀守領分の但州美含郡竹野谷の順谷村井山にある円通寺の大休和尚の許で出家させる。
元禄十五年十月に剃髪し「祖練(錬)元快」と名乗るが大赦令の出た直後の宝永六年(1709)三月一日に十九歳で入寂。興国寺に葬られたが興国寺が廃寺となり正福寺のクウの墓域に移されている。
豊岡城主京極甲斐守からの元禄十六年二月五日の公儀届書に「内蔵助妻去年十月初旬離別、吉之進母離別前より出家」とあり、大石内蔵助は吉千代の将来について、討入りの前々日に赤穂の恵光・良雲・神護寺の三僧に宛てた暇乞状の中で吉之進の出家を残念がり「一度武名之家をおこし候様に支度事に候」と書いている。

三男 大三郎のち代三郎 浅野本家で千五百石

元禄十五年(1702)七月五(七)日に豊岡石束家で生まれる。
百日余りで石束家の家来雲伝(くもで)茂兵衛の養子となりその後、生後六ヶ月で宮津の眼医者林文左衛門が金子十両を添えて実子として貰い受けている。
幕府は遺子の探索で、大三郎を林文左衛門の実子としては認めず内蔵助の三男とした為、再び石束家に引き取られている。
略歴よほど妻運が悪い? 最初の妻と後に離別、更に岡田助右衛門の女を娶るも享保十九年離別。延享二年浅野八郎左衛門の女を迎えたが同四年離別している。これらの故か「翁草」には平素の品行につき良くない記事があり、三田村鳶魚は「横から見た赤穂義士」に、梅毒にかかり鼻欠けになったとか、不出来で減俸になったなどと書いているが、その様な人間であったなら番頭など勤め遂げられる筈は無いと斎藤茂先生は「赤穂義士実纂」のなかで断言している。

長女 くう

宝永元年(1704)九月二十九日十五歳で病没し但馬豊岡日撫正福寺裏山に埋葬。戒名「正覺院本光妙智信女」

次女 るり 広島で幸せを得る

一時期、進藤源四郎の養女となるが理玖が豊岡に帰る時に戻され、大三郎が正徳三年(1713)に安芸広島藩に仕官する時に母と共に広島に移る。その後藩主浅野吉長の命で十六歳の時、安芸広島藩家臣浅野長十郎信之(後の監物直道)の妻となり二男四女をもうける。
宝暦元年(1751)六月に五十三歳で死去。墓所は常林院で戒名は「正聚院定譽寿真大姉」。

大石内蔵助と偽名のページ

大石内蔵助その1大石内蔵助
大石内蔵助その2池田久右衛門(偽名)

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

赤穂事件トップ次・大石主税

大石りくの頁へようこそ! (C) 2011 tadeho48