仇討ちのため、江戸に向かう前に豊岡の母親を訪ねているが、その時の情景を思い浮かべると堪らなくなる。
家紋:右二つ巴
忠康は二十一歳の時に伊藤仁齋の門に入る。古儀古学を極めて隣藩竜野脇坂家の侍講となって西播にその名をうたわれた。
藤江熊陽の墓は義士にもゆかりのある永應寺にあります。
大石主税は江戸でこの事を小野寺十内に話し、その内容が妻「丹」への手紙から分かっている。
母に会って「蒲団を通してほのかに母の体の温みがかよってきた様におもわれまする。しかし眼を明けて母に気まずい思いをさせてはならじと一心に瞼を閉じておりましたが、まなじりから涙がにじみ出て仕方がありませんでした」とある。
討ち入り姿
主税はそれをみて「かような時こそ少年相応の役廻り」といいながら身を躍らせて飛びこみ調べた。
その剛胆さは、後に主税が松平邸へお預けになった時、木村岡右衛門がこの時のことを語って「我ら一党は何れも死を決した仲間であるから命の惜しかろう筈もない。
然るにあの際躊躇したことを思えば恥ずかしい。さすがは主税殿、ただただ感服の外はない」と嘆称したという。(出典:赤穂義士事典)
石板:赤穂市内
★就中(なかんずく)大石主税殿と申候は、若年に御座候へども大男大力にて其夜も大長刀にて弁慶にもまさりたると承候と申候。
誠に心なき其日ぐらしの駕舁日雇のものまで奉感候事」。と細川家世話役の「堀内伝右衛門覚書」に記されている。(出典:赤穂義士事典)
独り言 二月四日、検使杉田五左衛門が来て、一同を大書院に呼び出して処分の沙汰書を宣告した。主税は「私ども一同本望を相達しましたる上切腹仰せつけられますること、まことに有難く存じ奉ります」とお請けした。死を目前にした十六歳の少年の言葉である。この器の大きさは生来のものか、家庭環境が育むのか、教育に因るものなのか、或いは信仰によるものなのか。もったいない。
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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