同じ赤穂藩士の隆重の兄は生き残り、のちに安芸浅野本家に再仕官、豊岡に大石内蔵助の妻子を安芸浅野藩に迎える役を果たしています。
渡辺・武林家系図
家紋:巴
捨てて逃げた薙刀には吉良家の定紋が入っていたので吉良左兵衛義周であったかも知れないと口惜しがったと書いている書物は「介石記」「烈士報讐録」「赤穂四十七士伝」「元禄快挙真相録」「真記赤穂義士録」「武林隆重伝」など多くあるが、戦った武士は不破数右衛門が正しいとする説もある。
台所近くの炭部屋で★吉良上野介を捕らえた手柄により泉岳寺で二番目に焼香している。
石板:赤穂市内
独り言 武林唯七の元の家名は渡辺。父の名は平右衛門で兄の半右衛門が渡辺家を継ぎ、弟の唯七が武林家を興した。兄は親の看病で孝を、弟は義士となり忠で恩顧に報いた。後日、本家安芸浅野家に再仕官した兄は大石内蔵助の遺族を本家へ招聘のため豊岡に出向いた。その時かっての主従はどんな言葉を交わしたのだろうか。本家の粋な計らいは義士への謝意に満ちている。
討ち入り姿
ただ大きな心残りは赤穂に残して置いた妾のことで、思えば可哀想でならない」との言葉と「妹が松山より帰って赤穂へも参っているだろうから何事も兄貴を御頼みしており宜敷面倒を見てやって欲しい」と頼んでいる。
彼が気にしていた妾の詳細は不明、妹の名は幕府に提出した「親類書」にも記載がなく不明。
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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