菅谷半之丞政利(赤穂義士)

菅谷半之丞サムネイル

菅谷半之丞サムネイル

すがやはんのじょう まさとし

刃傷事件勃発当時の役職は馬廻を務める譜代の臣であり当初から義盟に加わる。大石内蔵助と江戸に下り、町人政右衛門と変名して同志と苦労を共にし恩顧に報いた義士。

家族・家系図・家紋

菅谷家系図菅谷半之丞の家系図

重ね扉菅谷半之丞の家紋

浅野家譜代の家系

浅野長重が元和元年五月七日、大坂の役で毛利勝長と戦ったとき、名誉の戦死を遂げた二十余人の家来の中に菅谷加兵衛なる名がありこれが半之丞の先祖。

性格と容貌

討ち入り姿菅谷半之丞討ち入り姿

開城後居所を転々とする

元禄十五年正月十日赤穂から京都滞在中の早水藤左衛門宛の書状中には「霜月二十一日云々」の記述があるから十一月頃には赤穂に帰っていたと思われる。

元禄十五年七月頃までは赤穂に居を構えていたらしいが、七月二十四日付の早水藤左衛門宛の書状に「拙者事も当廿二、三日には爰元(ここもと)立申、足守へ立寄、三次へ帰り申事にて御座候」とあり、七月二十二、三日頃赤穂を発ち郷里の備後三次へ一時帰った。

[江赤見聞記]では伏見にいたことになっているから江戸に下着するまでは赤穂、三次、伏見などで時期の到来を待っていたことになる。

屋敷跡の説明板

場所を確認菅谷半之丞宅地跡案内板

半之丞は、浅野家譜代の家柄である。大兵学者山鹿素行が赤穂へ配流されてきた時、まだ七歳の少年であったが、素行配流中はその教えを受けた。後に免許皆伝の大石頼母助良重について山鹿流奥義免許を受けたと伝わる。
凶変が起こるや義盟に加わり、江戸に下着するまでは、赤穂、備後三次、伏見などで時機がくるのを待っていた。沈着で物静かな人柄であったため、表立った活躍はしなかったが、東下りには大石内蔵助に従って同行した。
江戸に下着後は、石町三丁目で町人政右衛門と変名し、大石内蔵助の側近にあって作戦参謀の役を務めた陰の功の人であった。
元禄十五年の討ち入りの際は、裏門隊の一員として屋内で奮戦した。
松山藩松平隠岐守の中屋敷にお預けの後、翌年加藤斧右衛門の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)

預け先 伊予松山藩松平家

泉岳寺の墓

菅谷半之丞の墓泉岳寺:菅谷半之丞(戻る)

市内の石板菅谷半之丞の銘板

遺言

不詳です

辞世の句

不詳です

戒名

刃水流剣信士

道水 二尺八寸 脇差 尺不明無銘
菅谷半之丞備忘録
生年
  • 万治三年(1660)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 四十四歳
変名
  • 町人 政右衛門
仮寓
  • 江戸石町三丁目小山屋方 ・ 谷中の長福寺僧文良(勘六の弟)を頼って宿とした
家系
  • 本姓・不詳
出身
  • 備後三次(播州赤穂説あり)
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 馬廻・郡代
禄高
  • 百石・譜代
討入切腹

赤穂事件トップ次・杉野十平次

菅谷政利の頁へようこそ! (C) 2011 tadeho48