赤穂義士 菅谷半之丞政利の一部始終

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刃傷事件勃発当時 百石で馬廻を務める譜代の臣で当初から義盟に加わる。大石内蔵助と江戸に下り、町人政右衛門と変名して同志と苦労を共にし忠義を尽くして四十四歳の生涯を閉じた。

半之丞の特筆事項

宅跡の赤穂義士会説明板(転載)

菅谷半之丞宅地跡案内板場所を確認

半之丞は、浅野家譜代の家柄である。大兵学者山鹿素行が赤穂へ配流されてきた時、まだ七歳の少年であったが、素行配流中はその教えを受けた。後に免許皆伝の大石頼母助良重について山鹿流奥義免許を受けたと伝わる。凶変が起こるや義盟に加わり、江戸に下着するまでは、赤穂、備後三次、伏見などで時機がくるのを待っていた。沈着で物静かな人柄であったため、表立った活躍はしなかったが、東下りには大石内蔵助に従って同行した。
江戸に下着後は、石町三丁目で町人政右衛門と変名し、大石内蔵助の側近にあって作戦参謀の役を務めた陰の功の人であった。元禄十五年の討ち入りの際は、裏門隊の一員として屋内で奮戦した。松山藩松平隠岐守の中屋敷にお預けの後、翌年加藤斧右衛門の介錯で切腹した。 赤穂義士会菅谷半之丞の画像
浅野家との縁 譜代の家系

浅野長重が元和元年五月七日、大坂の役で毛利勝長と戦ったとき、名誉の戦死を遂げた二十余人の家来の中に菅谷加兵衛なる名がありこれが半之丞の先祖。

性格と容貌 ぶおとこ?
  • 円山会議後は大石内蔵助の信頼が厚く江戸下りに同行し補佐役で活躍した。
  • 浪士中では一番容貌魁偉といわれた人で、美男説の出所は不明で事実とはだいぶ異なる。
開城後の足取り 居所を転々とする
  • 元禄十五年正月十日赤穂から京都滞在中の早水藤左衛門宛の書状中には「霜月二十一日云々」の記述があるから十一月頃には赤穂に帰っていたと思われる。
  • 元禄十五年七月頃までは赤穂に居を構えていたらしいが、七月二十四日付の早水藤左衛門宛の書状に「拙者事も当廿二、三日には爰元(ここもと)立申、足守へ立寄、三次へ帰り申事にて御座候」とあり、七月二十二、三日頃赤穂を発ち郷里の備後三次へ一時帰った。
  • 「江赤見聞記」によると伏見にいたことになっているから江戸に下着するまでは赤穂、三次、伏見などで時期の到来を待っていたことになる。
家紋 重ね扉
重ね扇説有り菅谷半之丞の家紋
赤穂市内に設置の銘板菅谷半之丞の銘板
家系図菅谷半之丞の家系図

半之丞の出自と経歴など

生年
  • 万治三年(1660)
家系本姓・不詳
没年
  • 元禄十六年二月四日
出身
  • 備後三次(播州赤穂説あり)
享年四十四歳
  • 菅谷平兵衛(浅野内匠頭家来)
戒名
  • 刃水流剣信士
  • 津田五郎左衛門の娘
禄高
  • 百石・譜代
兄弟
  • 兄 岡本松之助(浪人で備後三次之町在住)
    姉 八田弥助(浪人の妻)
役職
  • 馬廻・郡代
屋敷赤穂城下
性格不詳変名町人 政右衛門
雅号不詳仮寓
  • 江戸石町三丁目小山屋方 ・ 谷中の長福寺僧文良(勘六の弟)を頼って宿とした
  • 道水 二尺八寸・脇差 尺不明無銘
討入
妻子不詳切腹
遺言不詳辞世不詳
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

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