大石内蔵助と江戸に下り、町人政右衛門と変名して同志と苦労を共にし恩顧に報いた義士。
菅谷家系図
家紋:重ね扇(重ね扉説有)
討ち入り姿
石板:赤穂市内
後に免許皆伝の大石頼母助良重について山鹿流奥義免許を受けたと伝わる。
凶変が起こるや義盟に加わり、江戸に下着するまでは、赤穂、備後三次、伏見などで時機がくるのを待っていた。
沈着で物静かな人柄であったため、表立った活躍はしなかったが、東下りには大石内蔵助に従って同行した。
江戸に下着後は、石町三丁目で町人政右衛門と変名し、大石内蔵助の側近にあって作戦参謀の役を務めた陰の功の人であった。元禄十五年の討ち入りの際は、裏門隊の一員として屋内で奮戦した。松山藩松平隠岐守の中屋敷にお預けの後、翌年加藤斧右衛門の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)
元禄十五年七月頃までは赤穂に居を構えていたらしいが、七月二十四日付の早水藤左衛門宛の書状に「拙者事も当廿二、三日には爰元(ここもと)立申、足守へ立寄、三次へ帰り申事にて御座候」とあり、七月二十二、三日頃赤穂を発ち郷里の備後三次へ一時帰った。
[江赤見聞記]によると伏見にいたことになっているから江戸に下着するまでは赤穂、三次、伏見などで時期の到来を待っていたことになる。
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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遺言と辞世の句 不詳です |
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