家族
奥田・近松家系図
父
母
異母
- 弟 奥田貞右衛門
- 弟 文良(江戸谷中長福寺の僧・大和長谷寺説有)
- 弟 官右衛門 徳島の仁尾家を相続
- 妹 お百
義母には弟三人、妹一人が生まれ一番上の弟が
奥田孫太夫の養子となった貞右衛門。阿波蜂須賀家に仕える仁尾官右衛門に手紙を送って義母の永昌院に感謝し、異母妹の「お百」の将来を頼むなど
知略と情に富み、しっかりした人物だった。浅野家との縁
家紋:六つ星
先祖は医者
綿織冠者義高の末流で六角家の典医。
近松家を継ぐ祖父は豊臣秀頼に仕えた後に医術をもって備後三次浅野家に仕えた近松伊看。
後に浅野長直に侍医として仕え父の代に士分を得る。
場所を確認
屋敷跡の説明板
近松勘六は、祖父の代から
浅野家に仕えた。山鹿流兵学に通じ、知略に富み、また情愛の深い人であった。
元禄十三年、浅野内匠頭に従って江戸入へ下っていたが、在府中に刃傷事件が起こり、江戸屋敷を引き渡し、急きょ赤穂に帰り義盟に加わった。
元禄十五年、勘六は吉田忠左衛門とともに第一陣として江戸へ下り、石町三丁目に家を借り受け、森清助または田口三助と変名して敵情を偵察した。
吉良邸へ討ち入りの際は、表門隊の一員として早水藤左衛門らと屋外で奮戦、泉水に転落したが、ひるむことなく敵を斬り伏せた。しかし、身には数カ所の傷を負った。熊本藩細川家の下屋敷にお預けの後、翌年横田作之丞の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)
独り言 近松勘六は情の人であった。幼くして母を亡くし、乳母に育てられた。乳母宛の暇乞い状に吐露された心情は実母に等しい。また下僕勘三郎に関して伝わるエピソードはどれも人間味に溢れていて感じ入る。剛と優しさを兼ね備えた武士として私の記憶に残り続ける。
吉良邸の戦闘で負傷する
討ち入り姿
逃げる敵を泉水の所まで追いかけ一太刀あびせた拍子に池に落ちて刀傷と打撲を負う。幸い敵が逃げたので助かったが、危ないところであったと後日、堀内伝右衛門に語る。
別説では泉水に落ちながら敵のあごから斜めに切り割いたとあり、敵は山岡新八であったらしい。泉水での清水一学との対決は後に脚色されたものである。
乳母と近松勘六
乳母へのおもい
四歳の時に母と父とは十九歳の時に死別。乳母に育てられたこともあり、赤穂戸嶋新田に住んでいた乳母宛に手紙とお金を送り、乳母に心からなる感謝を捧げ、彼女の老後を看てやれない事を嘆いている。乳母の夫作兵衛にまで筆を添えて慰めてやって欲しいと頼み、形見分けの積もりか手持ちのあり金と自分の衣類を送っている。乳母宛の手紙
[(中略)われら事幼少より母におくれ候ところに、別けてそなた何かといたはり候て成人いたし、今にそなた一代何とぞ介抱いたし度く思ひ申し候に、不仕合せにて浪人いたし、近頃残念に存じ候。さりながら何事も前世の約束と愛し召し下さる可く候]。忠僕甚三郎
石板:赤穂市内
襲撃に加えればよかった!
- 討入りの前には瑤泉院へ仇討の費用明細などを届ける使者になったとの説もある。
- 討入りの際は吉良邸の前で待ち、泉岳寺までついて来る。元禄十五年十二月二十四日まで江戸に留まり、皆の落ち着き先を見極めて郷里に帰っている。
- 細川家にお預け後、堀内伝右衛門に「今から思えば勘六の名字を譲って士分並に仲間に加えてもらうよう内蔵助に頼めばよかったが残念至極だ」と語っている。
遺言
甚三郎にも伝えて欲しい
[討入りの時の負傷もお手厚い治療で全治致しました。なお谷中の長福寺にいる弟の文良に今日の様子を伝えて欲しい。また小者の甚三郎にも伝えて欲しい] 辞世の句不詳