大石瀬左衛門の存在は大石内蔵助にとって救いであったと思われる。
主君刃傷の報はすでに同日夕方、早水藤左衛門、萱野三平による第一の急便が携え赤穂に向かっている。
三月十九日午後八時ごろ、主君切腹の報は、瀬左衛門と原惣右衛門によって赤穂城にもたらされた。
瀬左衛門は、大石内蔵助とは遠い親戚で、祖父が内蔵助の曾祖父の弟にあたり、剣を潮田又之丞とともに、内蔵助の剣の師でもあり、東軍流の剣豪として知られていた奥村無我に学んだという。
急便として赤穂に到着したのち、瀬左衛門はそのまま赤穂に留まって内蔵助に従ったが、城明け渡し後は京都に移り住み、元禄十五年十月初旬には討ち入り決行のため、大石主税、小野寺十内、間瀬久太夫らとともに江戸に入り、吉良方の偵察にあたった。
家紋:右二つ巴討ち入り姿石板:赤穂市内
兄の脱盟で本家の大石内蔵助に遠慮したため大石主税との東下後は生活に困窮し、伯父で浪人して江戸にいた良聡(父の兄)とその次男の良穀に生活費を無心している。
遺品類の多くは伯父大石無人の九代の後裔に当たる津軽大石家に相伝され討入り関係遺物、書状、古記録と共に大石神社に納められ義士研究の第一級の資料として有名です。
[大石無人、郷右衛門、三平など同苗の三人へ今日の首尾を仰せ伝え願いたい] 辞世の句は不詳です
生年
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父
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変名
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刀
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