早水家系図
丸に立沢瀉
母と兄弟
実母
養母
実兄
実兄
妹
父親
実父
養父
寛文四年(1664)正月十一日に二百石で浅野長直に仕える。
一介の浪人が二百石で召し抱えられるのは人物器量尋常ならぬものがあったと思われる。元禄十五年三月二十八日赤穂で没する。墓所は赤穂
大蓮寺で戒名は「覚宗春道」と過去帳にある。
尚、早水の養祖父助兵衛は肥後熊本藩細川家の家臣であったが故あって主家を辞し筑後久留米に浪居を構えていた浪人で当地で没している。
江戸城刃傷事件 第一便の使者
討ち入り姿
刃傷事件発生当時、江戸在府中の萱野三平と共に赤穂に赴く。
持参の書状は次の通り
「
大石内蔵助殿、大野九郎兵衛殿 態一筆新達候。今十四日勅答に付登城被成、於殿中
吉良上野介殿を内匠頭様一太刀御切付之処目付衆取分被新、内匠頭様別条無之由に付右之段絶言語事候。
依之水野監物殿御目付近藤平八郎殿、天野伝四郎殿、家中火の許急度申付騒動不仕候様にと御老中被仰付候由に而、此許屋敷へ被参候。
夫に付其元家中者共城下之町騒動不仕様に急度可被申付候。且又組頭共へも我等申候由右之段可被申聞候。其外物頭諸役人へも可被申渡候。各中ケ間少候間両人之内罷下候儀必無用可被仕候為其如此候 恐々 三月十四日 浅野大学 書判」
高野山に浅野内匠頭の墓碑を建立
近松勘六と早水藤左衛門は高野山に参詣し主君の建碑に尽力している。
「五月五日(元禄十四年)遠林寺迄内蔵助申談、花獄院殿久岳院殿景永院殿冷光院殿之ため日拝料為持、高野山へ発足同十六日帰着なり」と(江赤見聞記)にある。
弓術と教養
射芸を尾張の士、星野勘左衛門に学んで奥義を極める。京都三十三間堂に徹し矢を試み名を顕しているほか和歌及び絵画にも造詣が深かった。
蜆川(しじみかわ)心中事件
赤穂藩分限帳によると馬廻百石橋本兵助(岡林杢助組)とあり、茂左衛門の子で幼名を兵助と言いこれが当人なのか。江戸城松の廊下刃傷事件当時十八歳の橋本平左衛門は籠城決死の列に加わり健気に見えたが、開城後大坂に出て新地の茶屋淡路屋のおはつという遊女と馴染み、ついに差し違えて死んでしまった。元禄十五年七月十五日(早水文書では十一月六日)のことである。橋本と縁故の深い佐々小左衛門は取り合わなかったが、藤左衛門は直ちに現場に赴き埋葬まで一切の後始末をしたと記録されている。
屋敷跡の説明板
場所を確認
藤左衛門は、備前西大寺の郷士の息子であったが、迎えられて
赤穂藩浅野の家臣早水四郎兵衛の聟養子となった。
彼は若くして弓術に励み、赤穂藩中第一の弓の使い手であった。そればかりではなく和歌、絵画のたしなみもあり、文武両道に達した人で周りからも厚い信望を得ていた。
殿中刃傷事件が起こったとき第一の早打ちかごで、
萱野三平とともに、江戸から赤穂までの一五五里(約620km)をわずか四日半で急報した誠忠剛気の士である。
討ち入りに当っては、屋根にのぼって弓矢をかけ、長屋から立ち現れる敵を矢つぎばやに数人射たおし、目ざましい働きをした。
引き揚げの際には、高らかに姓名を名乗って棟瓦に向かって二筋矢を射込んだと言われている。
のちに
細川家へお預けとなり、魚住惣右衛門の介錯で切腹した。
辞世の歌 地水火風空のうちより出でし身の たどりて帰る元のすみかに 赤穂義士会(転載)
預け先 肥後熊本藩細川家
泉岳寺の墓
早水藤左衛門の墓
市内石板
戒名
刃破了剣信士
遺言
不詳です
刀
広光二尺七寸 脇差 無之
辞世の句
[地水火風空のうちより出し身のたどりて帰る本のすみかに] 堀内伝右衛門覚書