使者は過酷な旅程に耐え得る体力と精神力が必要で、信頼の厚かった人柄が窺える。
生家山口氏は元々多ゝ良氏で中国の豪族大内義隆とその始祖を同じくする名家で大内氏滅亡後、長州山口から備前の西大寺村に移住した。
家紋:丸に立沢瀉
尚、早水の養祖父助兵衛は肥後熊本藩細川家の家臣であったが故あって主家を辞し筑後久留米に浪居を構えていた浪人で当地で没している。
彼は若くして弓術に励み、赤穂藩中第一の弓の使い手であった。そればかりではなく和歌、絵画のたしなみもあり、文武両道に達した人で周りからも厚い信望を得ていた。
殿中刃傷事件が起こったとき第一の早打ちかごで、萱野三平とともに、江戸から赤穂までの一五五里(約620km)をわずか四日半で急報した誠忠剛気の士である。
討ち入りに当っては、屋根にのぼって弓矢をかけ、長屋から立ち現れる敵を矢つぎばやに数人射たおし、目ざましい働きをした。
引き揚げの際には、高らかに姓名を名乗って棟瓦に向かって二筋矢を射込んだと言われている。
のちに細川家へお預けとなり、魚住惣右衛門の介錯で切腹した。辞世の歌 地水火風空のうちより出でし身の たどりて帰る元のすみかに 赤穂義士会(転載)
石板:赤穂市内早籠の仕組み
持参の書状は次の通り「大石内蔵助殿、大野九郎兵衛殿 態一筆新達候。今十四日勅答に付登城被成、於殿中吉良上野介殿を内匠頭様一太刀御切付之処目付衆取分被新、内匠頭様別条無之由に付右之段絶言語事候。
依之水野監物殿御目付近藤平八郎殿、天野伝四郎殿、家中火の許急度申付騒動不仕候様にと御老中被仰付候由に而、此許屋敷へ被参候。
夫に付其元家中者共城下之町騒動不仕様に急度可被申付候。且又組頭共へも我等申候由右之段可被申聞候。其外物頭諸役人へも可被申渡候。各中ケ間少候間両人之内罷下候儀必無用可被仕候為其如此候 恐々 三月十四日 浅野大学 書判」
討ち入り姿
江戸城松の廊下刃傷事件当時十八歳の橋本平左衛門は籠城決死の列に加わり健気に見えたが、開城後大坂に出て新地の茶屋淡路屋のおはつという遊女と馴染み、ついに差し違えて死んでしまった。
元禄十五年七月十五日(早水文書では十一月六日)のことである。
橋本と縁故の深い佐々小左衛門は取り合わなかったが、藤左衛門は直ちに現場に赴き埋葬まで一切の後始末をしたと記録されている。この事件を「蜆川事件」という。
「五月五日(元禄十四年)遠林寺迄内蔵助申談、花獄院殿久岳院殿景永院殿冷光院殿之ため日拝料為持、高野山へ発足同十六日帰着なり」と(江赤見聞記)にある。
射芸を尾張の士、星野勘左衛門に学んで奥義を極める。京都三十三間堂に徹し矢を試み名を顕しているほか和歌及び絵画にも造詣が深かった。
生年
| 家系
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変名
| 仮寓
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刀
| 討入
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