赤穂義士 勝田新左衛門武尭の一部始終

かつたしんざえもん たけたか勝田新左衛門サムネイル
祖父の時代に浅野長直に仕えて以来の家臣

農民出のため十五両三人扶持の微禄でしたが武芸を好み剣客として知られた存在でした。

七歳の時に両親と死別する不幸もあり孤独で不運な生涯でした。

討ち入り姿勝田新左衛門討ち入り姿

家紋:替わり切り竹二本(異説有)勝田新左衛門の家紋

石板:赤穂市内勝田新左衛門の討ち入り姿の銘板

家系・屋敷跡説明板・墓所

勝田家系図勝田新左衛門の家系図

家族
  • 勝田新左衛門
  • 佐藤甚右衛門の娘
  • 酒寄作右衛門妻(元浅野内匠家来)
  • 近藤十郎左衛門の妻
妻子
  • 独身(講談では幕府与力大竹重兵衛の娘を嫁にしたことになっているが間違い)

場所を確認勝田新左衛門宅地跡案内板

屋敷跡
新左衛門の祖父新兵衛は、常陸笠間領の農民であったが武芸を好み、その縁で内匠頭長直に見出されて召抱えられたという譜代の家臣で、長直が笠間から赤穂に移ったとき、祖父も従ってきた。

彼は義士若者組の一人で、剣術の腕前は、堀部安兵衛杉野十平次につぐ使手で、仇討ち急進派であった。

殿中刃傷事件が起こったときは、僅か二十二才の若冠であったが、決然として義盟に加わり、開城後は江戸に出て本所三ツ目横町の杉野十平次の隠れ家に同居して、町人嘉右衛門と変名して、吉良邸の様子を探っていた。

討ち入りに当たっては、表門隊に属し、奥田孫太夫矢田五郎右衛門と三人で組んで屋内に切り込み大奮戦した。のちに毛利家へお預けとなり、進藤為右衛門の介錯で切腹したが、遺言もなく、あっさりと思い切った人柄であった。 赤穂義士会

墓所が二箇所
  • 泉岳寺
  • 法楽寺(勝田家墓所)、茨城県大和村大字本木には供養墓がある。

役職・遺言・辞世の句・刀・雅号

勝田新左衛門備忘録
生年
  • 延宝八年(1664)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十四歳
戒名
  • 刃量霞剣信士
幼名
  • 不詳
家系
  • 本姓・源氏
出身
  • 播州赤穂
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 札座横目・中小姓
禄高
  • 十五石三人扶持・譜代
性格
  • 終始一貫仇討ちの意志不変
雅号
  • 不詳
変名
  • 町人 嘉右衛門
仮寓
  • 江戸本所徳右衛門町一丁目 長十郎店
  • 大日如来の梵字有之
  • 大小共に尺不明
討入切腹
遺言
  • 不詳
辞世
  • 不詳
赤穂四十七士と萱野三平

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