家紋:丸に違い鷹羽(異説有)
石板:赤穂市内
内匠頭切腹のときは赤穂にいたが直ちに義盟に加わり、開城後は大坂に出て原惣右衛門や潮田又之丞らとともに「上方急進派」の一人となって活躍した。
妻子を生まれ故郷の甥に預けて、江戸入りした後は新麹町に間瀬久太夫・岡島八十右衛門らと同居した。討ち入りのときは、裏門隊に属し、千馬三郎兵衛ら十一人で屋外にあって吉良方と戦った。
のち松平隠岐守の中屋敷へお預けとなり、元禄十六年二月四日切腹した。 赤穂義士会(転載)
討ち入り姿
上の御処置次第勿論たる可く候。時に至り、品見苦しくこれ無き様御支配頼み存候。次男勘次は幼稚と雖も男子の事に候へば、是また逃れ難しと存候。然らば妻子かねて出家いたさせ候旨望み申す事に候。其時の了簡次第と存候。
さて女子はさしたる御仕置有るまじく候や。弥々以て恥に及ばざる様、一類中扶助下さる可く候」
[梅が香や 日足を伝ふ 大書院](赤城士話)遺言は不詳です
独り言 東北出身の勘助には赤穂に家族を託すところがなかった。江戸に下る前、木生谷に仮住まいし自作自筆の位牌を浄専寺に納めている。また長男の行く末を案じた手紙にも死を覚悟した勘助がいる。赤穂から東北へ、江戸に取って返して初志を貫徹した。この凛とした節操に脱帽し頭を垂れる。
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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