ほりべやすべえ たけつね
生後まもなく母親と死別
父親も長い浪人暮らしの中、高田馬場での助太刀で一躍時の人に。
その後、堀部家の婿養子として幸せを得て間もなく江戸城松の廊下刃傷事件が起きる、不運な短命に涙する。
堀部家系図
堀部家の家族
重ね四つ目結び
養父
養母
姉
姉
安兵衛に惚れた養父
堀部弥兵衛金丸は中山安兵衛を養子にと望んだが、安兵衛は「拙者は中山家の嫡子、折角のご所望ながらこの義は御免を蒙りたい」と断わると、弥兵衛は中山姓のままで結構だと応じ、浅野内匠頭に跡目相続を願い出て了解を得る。
この誠意に安兵衛は元禄十年二十八歳の時、中山姓を捨て堀部姓を継ぎ、
赤穂浅野家に二百石の馬廻役で仕えることになる。
妻の名は [ほり]
安兵衛の切腹後、身を守り享保元年八月六日に四十歳で没した。墓所は東京芝青松寺、戒名は[青雲院香山正桂大姉]で諸書にある名の[幸]は誤りだと斎藤茂先生が[赤穂義士実纂]のなかで指摘されています。石板:赤穂市内
討ち入り迄の紆余曲折
仇討ち一途の急進派
江戸城松の廊下での刃傷事件で再び浪人となった安兵衛は
奥田孫太夫、高田郡兵衛と[一同籠城の覚悟ならば城を枕にしよう]と、四月五日江戸を出発し十四日夜に赤穂に着く。時すでに遅く開城が決まっており
大石内蔵助の元へおしかけて籠城を強硬に主張するが内蔵助の説得で江戸に帰り時期を待つことになる。
独り言 武士の一分(面目)とは? 堀部安兵衛は仇討ち=武士の一分と捉えた一人。武士の一分=浅野家の再興と捉えた元藩士も少なからず居た。安兵衛の手紙に「十人もおれば仇討ちはできる」がありこの一文、当時は仇討ち派=少数派だったともとれて興味深い。