堀部安兵衛武庸(赤穂義士)

赤穂義士祭

いざ出陣!赤穂城を出る四十七士

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仇討ち派は少数? 中山安兵衛 高田馬場決闘

堀部安兵衛サムネイル

堀部安兵衛

ほりべやすべえ たけつね

生後すぐ母親と死別

父親も長い浪人暮らしの中、高田馬場での助太刀で一躍時の人になる。その後、堀部家の婿養子として幸せを得て間もなく江戸城松の廊下刃傷事件が起きる。

堀部家系図・家紋

堀部家系図堀部武庸の家系図

重ね四つ目結び堀部武庸の家紋

養父養母

安兵衛に惚れた養父

堀部弥兵衛金丸は「高田馬場の決闘」で名を馳せた中山安兵衛を婿養子にと熱望したが、安兵衛は「拙者は中山家の嫡子、折角のご所望ながらこの義は御免を蒙りたい」と断わると、弥兵衛は中山姓のままで結構だと応じ、浅野内匠頭に跡目相続を願い出て了解を得る。

この誠意に元禄十年安兵衛二十八歳の時、中山姓を捨て堀部姓を継ぎ、赤穂浅野家に二百石の馬廻役で仕えることになった。

妻の名は [ほり]

安兵衛の切腹後、身を守り享保元年八月六日に四十歳で没した。墓所は東京芝青松寺、戒名は[青雲院香山正桂大姉]で諸書にある名の[幸]は誤りだと斎藤茂先生が「赤穂義士実纂」のなかで指摘されています。

仇討ち一途の急進武闘派

江戸城松の廊下での刃傷事件で再び浪人となった安兵衛は奥田孫太夫、高田郡兵衛と「一同籠城の覚悟ならば城を枕にしよう」と、四月五日江戸を出発し十四日夜に赤穂に着く。すでに開城が決まっており大石内蔵助の元へおしかけて籠城を強硬に主張するが内蔵助の説得で江戸に帰り時期を待つことになる。

独り言武士の一分(面目)とは? 堀部安兵衛は仇討ち=武士の一分と捉えた人。武士の一分=浅野家の再興と捉えた元藩士も少なからず居た。安兵衛の手紙に「十人もおれば仇討ちはできる」がありこの一文、当時は仇討ち派=少数派だったともとれて興味深い。

血判の同志分裂の危機

急進派は当の敵を見逃しては武士の道が相たたぬと、仇討ちを主張し続けるが、お家の再興を第一義とする内蔵助は吉田忠左衛門近松勘六原惣右衛門中村勘助大高源五らを江戸に派遣したり、再三にわたり書簡を送るなど説得に大変な苦労をする。この時期が伏見撞木町での放蕩と一致するのは単なる偶然か。

仇討ち以外に選択肢がなくなる

討ち入り姿堀部弥兵衛討ち入り姿

七月十八日になり浅野大学長廣の宗家広島藩への「差し置き」が決まりお家再興を断たれる。

仇討ちが決まる

七月二十八日に京都円山会議で復讐を一決してのち、吉良邸討ち入りへ突き進むことになる。

吉良邸襲撃 野太刀で奮戦

死人ゼロの功績

大刀に二尺七、八寸の樫の木柄をつけ、野太刀づくりにしてこれを車輪のように振るって奮戦。高田馬場での体験から安兵衛の助言で四十七士の討ち入り装束に鎖や針金を加えたことが死者を出さずに悲願を成就できた一大要因と評価する人は多い。

預け先 伊予松山藩松平家

泉岳寺の墓

堀部安兵衛の墓泉岳寺:堀部安兵衛(戻る)

市内の石板堀部武庸の銘板

戒名

刃雲輝剣信士

遺言

不詳です

銘は包□・脇差と共に尺不明

辞世の句

[梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思えば] (忠誠後鑑録)
[忠孝に命を捨つる武士の道矢たけ心の名をや残さん] (浅野仇討記)

中山安兵衛・中山家系図

出身

越後新発田であることが新発田藩世臣譜や中山家の菩提寺長徳寺の過去帳や墓碑などから確定している。

外祖母はお姫さま

中山安兵衛家系図(戻る)

本性源氏で外祖母は越後新発田藩五万石城主溝口伯耆守秀勝の五女。 寛文十二年十月十二日没 秋香院殿 宝光寺

外祖父

溝口一族の溝口四郎兵衛盛政で越後新発田藩で組頭を務め七百石を食む名門の家柄。 貞享二年八月一日没 宝光寺

実父

中山弥次右衛門は二代藩主溝口宣勝の家臣で二百石を給わり越後新発田で馬廻りを務めていたが後、浪人する。浪人になった原因については諸説があり、安兵衛が何歳の時だったのかも含め分かっていない。 天和三年五月二十五日没 戒名は休誓 長徳寺

実母

溝口四郎兵衛の六女で安兵衛を生んで間もなく病死、二人の姉と安兵衛が三歳になるまで祖母の城主秀勝五女の手許に引き取られたが祖母も病死し、父の許に戻る。 寛文十年五月二十五日没 宝樹院妙厳信女 法華寺

高田馬場の決闘助太刀

堀部家との接点

その働きが世間の評判になり、堀部弥兵衛が中山安兵衛を知ることになる。

事件のあらすじ

堀部安兵衛備忘録
生年
  • 寛文十年(1670)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 三十四歳
幼名
  • 安之助
性格
  • 几帳面で文筆家。のんべ安は誤りで酒はあまり飲まなかった
雅号
  • 不詳
変名
  • 長江長左衛門
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 馬廻・江戸常詰使番
禄高
  • 二百石・譜代
仮寓
  • 忠見扶右衛門(弥兵衛の兄)宅
  • 両国矢倉米沢町後藤庄三郎借家
  • 江戸本所林町五丁目紀伊国屋店
討入切腹

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