旧藩の危急を知り義盟への参加が叶ったとされ、吉良邸では義士中一番の働きをして本懐を遂げている。
浅野家に仕えたあと浪人となり佐倉新助と改名する。
正徳三年(1713)六月二日に酒井家で死去。墓所は古市町宗玄寺一族合同墓石。戒名は本功院釈隠良居士。
家紋隅角切横一
石板:赤穂市内
養母 安達大膳の娘
義姉 大田半兵衛妻(松平紀伊守家臣)
実父は岡野治太夫といい、浅野家家臣であったが浪人して佐倉新助と改名していた。主君の不興をかい、刃傷事件の数年前に浪人の身となり江戸に出ていた。
しかし主君を怨まず、のちに大石内蔵助の執り成しによって、泉岳寺の主君の墓前で閉門を解かれ帰参が叶い、義盟に加わっている。
義士の中で、浪人から帰参を許されたのは数右衛門ただ一人である。その後は八右衛門または松井仁太夫と変名し、江戸の同志と行動を共にした。討ち入りは裏門隊に属し、裏手の庭を持ち場に決められていたが、辛抱できずに邸内に踏み込んでいる。小手・着物は切り裂かれ、刃もこぼれてササラのようになり、最もよく奮戦したと伝えられている。のちに松平家へお預けとなり、荒川十太夫の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)
独り言 数右衛門に「己午より程ようせんと来られては どしゃかけられて帰る元辰」なる詩がある。元辰は原惣右衛門元辰のことで、「程ようせん」は原の口癖だと赤穂義士事典にある。元とはいえ、三百石の上役を「元辰」と著すところに数右衛門の気質がよく出ていると解釈しました。間違ってる?
討ち入り姿
刀は皆これなき様に罷り成り四、五人も切りとめ申積りにご座候。其外少し手あい致し候得ども、少許の太刀合せまでに御座候」(大石内蔵助送寺井玄渓)とある。
生年
| 家系
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変名
| 仮寓
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刀
| 討入
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遺言と辞世の句 ともに不詳です |
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