潮田家系図
家紋:細輪に三引
早くから義盟に加わり、内蔵助の意を受けて行動していた。大高源五らと共に江戸急進派を鎮撫するために江戸に下ったが、のちに又之丞自身も上方急進派の一人となっている。
江戸に到着してからは原田斧右衛門と変名して吉良邸の様子を探った。国絵図役の腕を発揮し、入手した吉良邸の旧屋敷図を討ち入りに役立てている。討ち入りは裏門隊に属し、屋外の取り締まりにあたった。首尾よく本懐を遂げ泉岳寺への引き揚げにあたり、上野介の首を槍の先にぶら下げて行進したのは、この又之丞であった。のちに細川家へお預けとなり、一宮源四郎の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)
討ち入り姿
私の着物は寺井玄達に託して大西坊に届けて置くから母の考え次第で形見分けして貰い度い。御心底を察すれば落涙もするが、何事も定まった因縁因果であると覚悟して潔く討ち死にする。
娘のおせつを私と考えてお見すてなくお世話願いたい、いかにも是非もない回り合わせで、可哀想に思えてならない」とある。
後ろ髪を引かれる 「老母並びに娘などが罪三族に及ぶの故で幕府から罪に問われるのも覚悟の上だ。しかし万一にも助かった節は飢餓に及ばないようお世話願いたい。母並びに姉が我等のことを聞けば取り乱すと思うが、武士の習い、珍しからざること故存じ切る様申し聞かせて下さい」と頼んでいる。
石板:赤穂市内
先に逝く内蔵助に対し「★内蔵助殿、皆どもも追っつけ参りますぞ」と言った。これを聞いた内蔵助はにっこりと肯いて出て行ったと伝わる。
独り言 切腹前夜の話を読んで心の強さに驚嘆する。富森助右衛門や大石瀬左衛門ら若い面々が集まって雑談にふけっていると又之丞は「とかくあの様にさはぎ申候間やがて埒は明可申候へども、先明日は内蔵助へ申し候て、手錠をおろさせ可申と笑被申候」と「堀内覚書」にある。出典:赤穂義士事典
生年
| 家系
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変名
| 仮寓
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刀
| 討入
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