家紋:蛇の目
半右衛門隠居の後、与五郎は家督を継いで仕えたが元禄十年に美作守死去して主家断絶
浪人となり、両親を国に残して赤穂に来たり、内匠頭に仕官して五両三人扶持、横目付に任ぜられた」とある。石板:赤穂市内
討ち入り姿
家主は吉良に仕える徒士の伯父で吉良家に中間として入り込もうとしたが三河国吉良領以外の者は採らなかったので、あきらめ吉良邸門前の米屋五兵衛こと前原伊助の店に移り米や雑穀を扱う「小豆屋」とした。
蜉蝣(かげろう)薄暮をおそれ秋蝉鳶鴟(しゅうぜんえんし)をにくむの類なり。なかんづく小山、進藤は大石に縁ありて共に死せざるべからざるなり。しかるに進藤曰く『いま事を果たさんと欲する者は、皆な餓死をにくんで忠臣に似たる成り』と、此れ何の謂ぞや。汝忠心を棄てて、飢うる没(な)きを採るか。
至愚を抱いて言を吐く者なり。糟屋勘左衛門、田中権右衛門、多藝太郎左衛門共に人の義あるを羨み、暫く大石に属すと雖も、もと性弱きによりて、忽ち心を変ずる者なり]
独り言 神崎与五郎自筆の手紙であると平成二十五年に赤穂市教育委員会が発表。この手紙は妻「かつ」へ宛てた返書とみられ、かな文字のやさしい筆跡に家族への思いやりが感じられるとのコメントが付してありました。酒斗なを辞さずの豪放と細心を併せ持つ与五郎を垣間見た気がしました。
今年は我ら事御案じ候てつかえもふとり申す由。さてさてこれのみ気の毒に存じ参らせ候。我事忘れ申さるる間なき由、さぞさぞさ候はんとすもじ(推量)致し参らせ候。
我らと思はれ候て、かもじへ、よくよく愛らしく致され下さるべく候。我らとても、その方恋しく候ても、これは人たるものの勤めにて候。
かもじなどいろいろと申され候てもそもじ殿心弱く候ては悪しく候まゝよくよく分別なさるべく候。
なるように外ならぬものにて候。くれぐれ左様に御心得候て、そもじ殿わづらひ申されぬように致されぬように致され候べく候。何ほど我ら事、御案じ候ても詮なく候。そもじ殿つかれふとり候由御申越候て、さてさて気づかひに存じまいらせ候」
「那波十景」元禄十四年 高光寺所蔵
[梓弓春ちかければ小手の上の雪をも花のふぶきとも見ん] 槍印に付ける。遺言は不詳です
生年
| 家系
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変名
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刀
| 討入
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