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赤穂義士 中村勘助正辰の一部始終

赤穂義士のトップページに戻るなかむらかんすけ まさとき

赤穂浅野家譜代の臣で禄は百石 書物役を務めていて凶変に遭う。東下に際し赤穂には家族を託す所がなく、出身地の奥州白河まで家族を送り届けた際の路銀五両を借用した記録が残る。

家紋です丸に違い鷹羽(異説あり) 銘板です
市内の中村勘助の銘板
家系図です
家系図

勘助の特筆事項

宅跡の赤穂義士会説明板(転載)

中村勘助宅地跡案内板
場所を確認

中村勘助は、奥州白河藩の松平大和守の家臣・三田村小太夫の次男であるが、赤穂藩士・中村庄助の娘婿となって中村家を継いだ。
勘助は、文書・書道に秀でていたから祐筆として務め、開城後は大石内蔵助の代筆もしている。内匠頭切腹のときは赤穂にいたが直ちに義盟に加わり、開城後は大坂に出て原惣右衛門潮田又之丞らとともに「上方急進派」の一人となって活躍した。妻子を生まれ故郷の甥に預けて、江戸入りした後は新麹町に間瀬久太夫岡島八十右衛門らと同居した。討ち入りのときは、裏門隊に属し、千馬三郎兵衛ら十一人で屋外にあって吉良方と戦った。のち松平隠岐守の中屋敷へお預けとなり、元禄十六年二月四日切腹した。 赤穂義士会

中村勘助の画像です妻と子 娘もろとも義絶

中村庄助の娘
長男
中村忠三郎(十五歳)は伊豆大島へ遠島ののち許されて宝永三年に奥州白川に帰るが三年後に病死している。
次男 中村勘次(五歳)妻の強い願いで僧侶になる。浅草宗源寺で生涯を終える。
長女 大野瀬兵衛妻、清兵衛が義盟に加わらないことを怒り義絶。
次女 姫路在住、娘に恥ずかしい思いをさせないようにと白川一族に頼む。
三女 原惣右衛門方在住。

妻子を奥州迄送る

播州にも上方にも妻子を託す人がいなかった 生まれ故郷奥州白川の甥、三田村十郎太夫に預けその足で江戸に出て叔父の間瀬久太夫らと一緒に生活し時期を待った。

手紙

長男の将来を案じて 三田村繁右衛門と三田村十郎太夫宛て「男子は逃る可からざる処、予て覚悟の前に候。倅忠三郎儀、何方迄も召連れ申す可き儀に候へども、若年殊に性魯(おろか)につき覚束なく存候に付、残し置き候。上の御処置次第勿論たる可く候。時に至り、品見苦しくこれ無き様御支配頼み存候。次男勘次は幼稚と雖も男子の事に候へば、是また逃れ難しと存候。然らば妻子かねて出家いたさせ候旨望み申す事に候。其時の了簡次第と存候。さて女子はさしたる御仕置有るまじく候や。弥々以て恥に及ばざる様、一類中扶助下さる可く候」

勘助の出自と経歴など

生年 明暦二年(1656) 家系 本姓 ・ 藤原氏
没年 元禄十六年二月四日 出身地 奥州白川
享年 四十八歳 実父 三田村小太夫(陸奥白川藩松平大和守家臣病死)
養父 中村庄助(浅野家家臣で山鹿素行門下で兵学の達人として知られた人)
戒名 刃露白剣信士 実母 井内源右衛門娘
養母 間瀬権太夫娘(間瀬久太夫の姉)
禄高 百石 ・ 譜代 兄弟 実兄 原惣右衛門五十三歳(松平大和守家臣)
実弟 三田村数右衛門四十三歳(同上家臣)
実姉 小出半左衛門母
役職 書物役(祐筆役) 親戚 伯父 間瀬久太夫
従弟 間瀬孫九郎
甥 三田村十郎太夫(奥州白川城主松平大和守家臣)
屋敷 赤穂城下 変名 山彦嘉兵衛
幼名 不詳 仮寓所 江戸新麹町四丁目和泉屋五郎兵衛方
性格 清廉で剛直 討入守備 裏門隊警備 吉良邸討入り時の詳細
長国 二尺四寸 ・ 脇差 無銘 尺不明 お預け所 伊予松山藩松平隠岐守定直 赤穂四十六士の切腹
雅号 不詳 切腹場所 伊予松山藩松平隠岐守定直中屋敷
妻子 特筆事項に記載 介錯人 大島半平
辞世の句 「梅が香や 日足を伝ふ 大書院」(赤城士話)
「鱗鳳自宿東武門 更無忠孝二義昏 若生畢意依仁厚 撮髪男児重王恩」(赤城士話) 遺言は不詳
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

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