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赤穂義士 茅野和助常成の一部始終

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美作藩士として 森伯耆守長武に仕えたのち赤穂に来て横目付となる。美作出身者には神崎与五郎や横川勘平がいて目付として仕えている。微禄の新参者ながら義にあつく討ち入りに加わりその生涯を閉じました。

茅野和助の家紋です
家紋 角松葉
茅野和助の詩の銘板です
常成の銘板
萱野和助の家系図です
家系図

和助の特筆事項

手跡と花押 真筆の手紙発見!茅野和助の手跡です

相生市明顕寺の古文書のうち一通が茅野和助自筆の手紙であると平成二十五年に赤穂市教育委員会が発表しました。
亡くなった父にお悔やみを寄せた神崎与五郎への礼状です。共に元美作津山藩の森家中だった両家が懇意であった証しだとのコメントが付してありました。

茅野和助の画像です赤穂藩に再仕官

僅か四年で・・・ 神崎与五郎と同じく森伯耆守長武に仕えていたが、故あって赤穂にきて浅野内匠頭長矩に召し抱えられ奉公わずか四年目で凶変にあう。赤穂藩では新参で軽輩ながら義に厚く神崎与五郎とともに義盟に加わった。開城後も赤穂に残ってひたすら時機の来るのを待ち、山科に於ける連判にもその名が見えることからしばしば山科へも行ったと思われる。
元禄十五年十月四日、間瀬久太夫小野寺十内大石瀬左衛門らと江戸に下り礒貝十郎左衛門と同居して吉良邸の偵察に努めた。
槍は屈指の使い手で、自眼流居合をよくし、討ち入り時には得意の半弓を使って奮戦した。歌道は禿峰と号して秀句が多い。

水野家藩主に 俳諧で謝意を・・・

十二月二十一日お預け先の水野家中屋敷で藩主水野監物に引見された時、水野家の厚遇に感謝して、「日あたりや雪吹のけて梅を先ず」と俳句で謝意を表しています。

和助の出自と経歴など

生年 寛文七年(1667) 家系 本姓 ・ 藤原氏
没年 元禄十六年二月四日 出身地 美作国津山(岡山県津山市)
享年 三十七歳 茅野武助(玄安)で美作森伯耆守長武に仕えたのち浪人する
戒名 刃響機剣信士 富田加兵衛の娘
禄高 五両三人扶持 ・ 新参 兄弟 弟 茅野加太夫 浪人
役職 横目付 親戚 従弟 茅野理右衛門(建部伝右衛門家臣)
屋敷 赤穂城下 変名 町人 助五郎 ・ 富田藤吾
幼名 不詳 仮寓所 江戸芝源助町の礒貝十郎左衛門宅に同居
性格 節義に厚く誠実な人柄 討入守備 裏門警備 吉良邸討入り時の詳細
政久 二尺六寸
脇差 則光 一尺八寸
お預け所 三河岡崎藩水野監物忠之 赤穂四十六士の切腹
雅号 禿峰(とくほう) 切腹場所 三河藩水野監物忠之中屋敷
妻子 妻 中祐玄の娘
長男 茅野猪之吉(切腹時四歳)は母と共に赤穂に住んでいたが宝永三年(1706)七歳で死去し赤穂の福泉寺に葬られる。諸書にある「猪之助」は誤りで戒名は速到真岸童子。
遺言 不詳 介錯人 中山団六
辞世の句 「天地の外にあらじな千種だに本さく野べに枯るゝと思へば」 泉岳寺の僧の求めに応じて(白明話録)
「世や命 野中で消る 世や命」(赤城士話)
「其魂や 風にはなるる 凧巾」(赤城士話)
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼亮
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼定 不参加 萱野重實

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