茅野和助常成(赤穂義士)

赤穂藩士わずか四年で赤穂浪士になる不運

かやのわすけ つねなり

茅野和助サムネイル

茅野和助

美作藩士として 森伯耆守長武に仕えたのち赤穂浅野家に仕官。

美作出身者には

神崎与五郎横川勘平がいて同じく目付として仕えている。いずれも微禄の新参者ながら義にあつく討ち入りに加わりその生涯を閉じています。

長男の墓と系譜

猪之吉墓:赤穂福泉寺茅野猪之吉の墓

茅野家系図萱野和助家系図

和助の先祖

平井兵衛といい、小早川秀秋に仕えていたが秀秋が二十六歳で早逝したため平井兵衛は浪人となり勝田南部郡河辺村に住む。その子武三郎常成が茅野政右衛門の養子となり常高と称し、森忠政に仕え二百石を給わるまでになる。

その孫の茅野武助常宣(のち玄安と称す)は藩主伯耆守森長武との間に確執があり禄を捨てて河辺村に隠棲する。それを聞いた赤穂城主浅野長矩が招いたが武助は固辞して動かなかったと「岡山県人名辞書」にある。

両親と兄弟など

家紋:角松葉茅野和助の家紋

石板:赤穂市茅野和助の詩の銘板

  • 茅野武助(玄安) 美作森伯耆守長武に仕えたのち浪人する
  • 富田加兵衛の娘
  • 茅野加太夫 浪人
従弟
  • 茅野理右衛門(建部伝右衛門家臣)

妻子

  • 中祐玄の娘
長男
  • 茅野猪之吉(切腹時四歳)は母と共に赤穂にいたが宝永三年(1706)七歳で死去。諸書の「猪之助」は誤りで「猪之吉」が正しく戒名は「速到真岸童子」(出典:赤穂義士実纂)

赤穂藩に再仕官

討ち入り姿茅野和助討ち入り姿

僅か四年で・・・

神崎与五郎と同じく森伯耆守長武に仕えていたが、故あって赤穂にきて浅野内匠頭長矩に召し抱えられ奉公わずか四年目で凶変にあう。

赤穂藩では新参で軽輩ながら義に厚く神崎与五郎とともに義盟に加わった。開城後も赤穂に残ってひたすら時機の来るのを待ち、山科に於ける連判にもその名が見えることからしばしば山科へも行ったと思われる。

元禄十五年十月四日、間瀬久太夫小野寺十内大石瀬左衛門らと江戸に下り礒貝十郎左衛門と同居して吉良邸の偵察に努めた。

槍は屈指の使い手で、自眼流居合をよくし、討ち入り時には得意の半弓を使って奮戦した。歌道は禿峰と号して秀句が多い。

水野家藩主に 俳諧で謝意を・・・

十二月二十一日お預け先の水野家中屋敷で藩主水野監物に引見された時、水野家の厚遇に感謝して「日あたりや雪吹のけて梅を先ず」と俳句で謝意を表しています。

辞世の句

[天地の外にあらじな千種だに本さく野べに枯るゝと思へば] 泉岳寺の僧に応じて(白明話録)
遺言は不詳です

手跡と花押

茅野和助の手跡

真筆の手紙発見!

相生市で見つかった古文書のうち一通が茅野和助自筆の手紙であると平成二十五年に赤穂市教育委員会が発表しました。

亡くなった父にお悔やみを寄せた神崎与五郎への礼状です。共に元美作津山藩の森家中だった両家が懇意であった証しだとのコメントが付してありました。

独り言
両家が懇意であった証が他にもありました。同じ古文書のなかに神崎与五郎の借銀証文があり、なんと茅野和助が連帯保証人になっていたのです。元禄十二年師走のことでした。どんな事情があっての借金なのかは不明ですが、なんともほほえましく往時の両士を偲ぶことができました。

茅野和助備忘録
生年
  • 寛文七年(1667)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 三十七歳
戒名
  • 刃響機剣信士
幼名
  • 不詳
家系
  • 本姓・藤原氏
出身
  • 美作国津山(岡山県津山市)
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 横目付
禄高
  • 五両三人扶持・新参
性格
  • 節義に厚く誠実な人柄
雅号
  • 禿峰(とくほう)
変名
  • 町人 助五郎・富田藤吾
仮寓
  • 政久 二尺六寸
  • 脇差 則光 一尺八寸
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

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