トップに戻る

赤穂義士 大高源吾忠雄の一部始終

赤穂義士のトップページに戻るおおたかげんご ただお

二十石の微禄ながら 文武にすぐれ大石内蔵助の信頼が厚かった。容貌は「いもづらで猪首」だったらしいが、俳諧に秀で参勤交代の合間に詠んだ詩集を出す技量を有し、第一人者宝井其角とも交流があった。

大高家の家紋です
丸三盛亀甲中に花菱
大高源吾の詩を書いた銘板です
大高源吾の銘板です
大高源吾の家系図です
家系図

源吾の特筆事項

宅跡の赤穂義士会説明板(転載)

大高源五宅地跡案内板
場所を確認

源五は大石内蔵助に最も信頼された一人で、貝賀弥左衛門とともに神文返しの命を受け、京・大坂・播州の同志宅を訪ねて盟約者淘汰の任にあたった。また、堀部安兵衛らの江戸急進派鎮撫の使者も務めている。
源五は文雅にたしなみ、俳諧は水間沾徳の門人であり、俳号を子葉という。室井其角や国学者の羽倉斎(荷田春満)とも親交があった。著書の「丁丑紀行」や「俳諧二つの竹」が有名である。また、茶人山田宗偏に弟子入りし、脇屋新兵衛と名前を替えて吉良家の情報を探った。
討ち入りは表門隊に属し、大太刀をふるって奮戦した。実弟の小野寺幸右衛門と叔父の小野寺十内、従弟の岡野金右衛門も討ち入りに参加している。松平家へお預けとなったのち、宮原久太夫の介錯で切腹した。切腹直前に書き付けた辞世の句がある。梅を呑茶屋もあるへし死出乃山 赤穂義士会

大高源五の画像です禄高について 父は二百石

大高源吾の禄高は二十石五人扶持の軽輩だが、大高家は浅野長直に仕え禄高二百石取りだった。父の兵左衛門が没したとき源吾は五歳で幼少の故と藩の財政状態も逼迫していた時期でもあって十分の一の禄となった経緯がある。人格高潔にして教養が豊かなのも肯ける。

教養が役立つ 討ち入り日が決まる!

和歌もでき国文の素養もあり、茶道も堪能だった。江戸では大坂の呉服商番頭脇屋新兵衛と名乗って山田宗偏の門に入り、吉良家の茶会を通じて上野介の在邸日を確かめることに成功。十二月十四日の討ち入りを決める一翼を担った。

源吾と俳諧 宝井其角と交流

俳諧の師匠と俳号

談林派の水間沾徳門下で俳人として赤穂藩内で一派をなす。沾徳の若い頃の号「沾葉」の一字を貰い「子葉」と号し、赤穂藩士の多くも沾徳に教えを受ける。

俳諧の仲間

宝井其角、中島宗伴(豪商)、荷田春満(国学者)がいる。赤穂藩内では萱野三平が書いた神崎与五郎宛の手紙の中に源吾の名があり、俳諧を通じた交流があったことが分かっています。

其角と子葉

以下は十二月二十日付で其角から文鱗への書簡中にあるが、其角が赤穂浪士との密接な関係を誇示する目的で偽作したものとされる。
設定1 討ち入りの前日(十二月十三日)に煤竹売りの子葉が両国橋で其角に会った設定で
  • 其角 「年の瀬や 水の流れと 人の身は」
  • 子葉 「あしたまたるる その宝船」
設定2 討入り当夜、其角が句会で本多家(吉良邸の北隣り)に居た設定で
  • 其角 「我が雪と 思えば軽し 笠の雪」
  • 子葉 「日の恩や たちまち砕く 厚氷」
  • 春帆(富森助右衛門) 「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰かな」

俳諧紀行「丁丑紀行」について

子葉二十六歳の時(元禄十年)、主君長矩の参勤交代に同行した江戸から赤穂までの紀行詩。この紀行詩は六十一年後の安政五年(1858)にあきの国みささ川の漁者「蓬前ほうぜん」により公刊され、元禄十年の干支が丁丑であることから「丁丑紀行ていちゅうきこう」と名付けられる。

子葉の句碑 両国橋たもとの公園に「日の恩や たちまち砕く 厚氷」の句碑がある。

手紙 討入直前に書いたもので名文

母宛で「内々の大事も、いよいよ首尾よく御座候て、も早二、三日中に打ち申す事に御座候。これまでは八幡大菩薩、観世音菩薩の御守りして存じの外た易く埒あき申候。討込み候ての本望遂げ申す段、あわれあわれ思うままにあれかしと願い申候。今更何事を申し上ぐべき事も御座なく候。是かぎりの文にて御座候。何かの事もみなみな前世の約束と思召し、いたく御嘆き遊ばれまじく候。何ぞ此節まで手馴れ候もの形見に送り上げ申し度く候へども、衣類等の様なるものは遣し難く、余りに垢つき候ままここ許にて兎にも角にも致し申す可く候。肌に着け申候物にて御座候まま守袋進じまいらせ候。まことにまことに先立ちまいり候不孝の罪、後の世も恐しく存じ奉候へども全く私事に捨て候命ならず候まま其の罪御許し下されただただ兎にも角にも深く御嘆き遊ばされず御念仏頼み奉候。刀は親父の御差し成され候刀にて御座候。刃のわたり二尺三寸程御座候大長刀持ち申候。此の度の事と存じ心のまゝに出で立申候。人に勝れし働き仕る可く候とあっぱれ勇み申候まま此段少しも少しも御気遣ひ遊ばし下さるまじく候。山を裂く刀も折れて松の雪」

源吾の出自と経歴など

生年 寛文十二年(1672) 家系 本姓 安部氏で祖先は安部貞任に仕えたのち秋田城介家(安達家?)に仕え出羽の大高館を領し大高を名乗る
没年 元禄十六年二月四日 出身地 播州赤穂
享年 三十二歳 大高兵左衛門
戒名 刃無一剣信士 小野寺又八の娘(小野寺十内の妹) ・ 貞柳尼
禄高 二十石五人扶持 ・ 二代 兄弟 実弟 小野寺幸右衛門秀富(小野寺家の養子になる)
役職 膳番元方 ・ 腰物方 ・ 金奉行 親戚 従兄弟岡野金右衛門・従兄妹金右衛門妹・従兄弟大高半五兵衛
屋敷 赤穂城下 変名 脇屋新兵衛(大阪の呉服屋の番頭と名乗り上野介の動向探索をする) ・ 大鷹文吾忠雄(仮名手本)
性格 人なり俊英にして気節、文雅に富み気品があった 仮寓所 京都小川頭新本町通 ・ 江戸南八丁堀湊町
討入守備 表門突入隊 一番乗り 吉良邸討入り時の詳細
共久 二尺五六寸
脇差 政国 九寸五分
お預け所 伊予松山藩松平隠岐守定直
雅号 子葉・湖月亭・凌霜亭 切腹場所 伊予松山藩松平隠岐守定直中屋敷 赤穂四十六士の切腹
妻子 独身 介錯人 宮原久太夫
辞世の句 「梅で呑む 茶屋もあるへし 死での山」 「山を裂く 力も折れて 笠の雪」(討入り時に袖に付けた句)
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

■先頭に戻る ■トップページ ■義士トップ ■次ページ(岡島八十右衛門)
大高源吾の頁へようこそ! © 2011 tadeho All Right Reserved 忠臣蔵のふるさと赤穂においでよ