千馬三郎兵衛光忠(赤穂義士)

退職手続き中に刃傷事件が起き脱藩を翻意

ちばさぶろべえ みつただ

千馬三郎兵衛サムネイル

浅野内匠頭の不興をかい

百石から三十石へ減禄の処分を受ける。これでは忠誠は誓えないと致仕を願い出た時に刃傷事件が起きる。

私憤より公憤が勝ると一命を賭して討ち入りに加わった人で武士の鑑。

千馬家系図家系図

[家紋]七星に月家紋

浅野家との縁と家族

千葉氏の末裔

戦国時代に浪々の身となり先祖の名を汚したとして千馬に改めたという。光忠は三男として生まれ、浅野家臣で同族の千馬三郎兵衛の養子となり名を継いだ。実父
  • 千馬求之助(永井日向守家臣)
実母
  • 筑間三右衛門娘
  • 荊木貞右衛門五十四歳(浪人大坂在住)
  • 荊木源之丞
  • 荊木岩之助
  • 刈部弥次郎娘(元禄九年に死別)
女児
  • 先妻の児 二名(兄の荊木貞右衛門方在住、その後の消息は不明)
後妻
  • 岡山藩士津川門兵衛の娘(元禄十三年頃内妻となり享保十六年四月没)
長男
  • 後妻の長男 藤之丞(千馬三朗兵衛が大坂浪人中に誕生する)

立派に成長する

この母子は千馬三郎兵衛光忠東下りの前、妻の実家である岡山の津川家に引き取られている。藤之丞は成長して池田家に召し抱えられ、母が死んだ際に津川家の番華所[超勝寺]に両親の墓を建てている。

屋敷跡の説明板

場所を確認千馬三郎兵衛宅地跡案内板

石板:赤穂市内銘板

討ち入り姿千馬三郎兵衛討ち入り姿

三郎兵衛は赤穂藩家臣千馬三郎兵衛光利の養子となり、義父の死後家督を継いだ。三郎兵衛の名は、義父の名を襲名したものである。実父は千馬求之助といい、永井日向守直清の家臣であった。

三郎兵衛は、有職故実に詳しく武家の礼法や手紙の書式・書法にも通じていた。その性質がすこぶる剛直一片で容易にその主張を曲げなかったという。

そのため主君浅野内匠頭の不興を蒙っており、暇を乞うて浪人し赤穂を退去しようとしていたところへ、恰も元禄十四年三月十四日の刃傷事件が起きた。

浅野家への恩に義を厚くし、大石内蔵助に申請して義盟に加わった。江戸では原三助と変名して、間喜兵衛十次郎新六らと同宿し探索などを行った。討ち入りは裏門隊に属し、大石主税らと共に裏門内屋外の警戒に当たり、半弓を使い奮戦した。のちに松平隠岐守(伊予松山藩主)へお預けとなり、波賀清太夫の介錯で切腹した。 赤穂義士会(転載)

忠義とは?

こんな事ができる?

  • 元禄十年に閉門処分を受けるなど、主君の長矩と気が合わず禄高も百石からのち三十石に減禄され、こんな心持ちで仕えるのは不誠実だと、致仕を願い出た矢先に江戸城で刃傷事件が起きる。
  • 長矩と自分の感情は私事、赤穂開城、浅野家再興と公ごとが沢山ある。人材が必要な時だから私を捨てて公に従おうと、大石内蔵助に辞表撤回を願い出て城内に戻った人。
  • 原惣右衛門元辰と共に上方方面の仇討ち急進派の中心人物で討入りでは清水一学を倒したと伝わる。

独り言 強固な精神と信念があっての諫言か。意見の齟齬で左遷なのに藩のために命を投げ出すのである。そういえば一大事勃発に「遅れてならじ」の配慮?屋敷は西城門を出てすぐのところ。戦国時代を生きた古武士の風格を感じる。いつの世も光忠のような人に光の当たる社会であって欲しい。

千馬三朗兵衛備忘録
生年
  • 承応二年巳歳(1653)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 五十一歳
戒名
  • 刃道互剣信士
幼名
  • 不詳
雅号
  • 不詳
家系
  • 恒武平氏で鎌倉幕府に仕えた御家人
出身
  • 不詳・播州赤穂説あり
屋敷
  • 赤穂城下
役職
  • 馬廻・宗門改
禄高
  • 百石から三十石に減禄・二代
性格
  • 頗る剛直で義に厚い
妻子
  • 特筆事項に記載
変名
  • 原三助・千葉三郎兵衛元忠(仮名手本)
仮寓
  • 江戸新麹町四丁目大屋七郎右衛門裏
  • 庚高 二尺四寸
  • 脇差 同作 二尺
討入切腹

遺言及び辞世の句 ともに不詳です

赤穂四十七士と萱野三平

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