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赤穂義士 村松喜兵衛秀直の一部始終

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二代にわたり浅野家に仕え 二十石五人扶持の禄高でした。嫡男の三太夫は無禄であり父親は息子の義盟参加に反対するが結局、親子で討ち入り切腹します。次男の政右衛門は伊豆大島へ流刑のあと赦されて仕官を果たします。

村松喜兵衛の家紋です
家紋違い扇
村松喜兵衛の銘板です
喜兵衛銘板
村松喜兵衛の家系図です
家系図

喜兵衛の特筆事項

村松喜兵衛の画像です父のこと

実父 堀江九右衛門、主取得不仕、町人に罷成候(名字帯刀を許された町人説有り)
養父 村松九太夫、堀田上野介のあと浅野内匠頭に仕官し秀直を婿養子にした。

妻子のこと

村松九太夫の娘
長男 義士で切腹
村松三太夫二十七歳 父の秀直は当初、息子が部屋済みの身分であることや母の老後を看て貰いたい事が理由で義盟に加わることに反対するが気節のある三太夫高直の気持ちが勝り義盟に加わることになる。
次男 連座で流刑
村松政右衛門二十三歳 江戸在住ですぐに町奉行に引き渡し揚げ屋に収容されて伊豆大島へ遠島となる。宝永三年(1706)八月二十四日に許されて江戸に帰り僧籍を得て「無染」と称するが後、還俗して旗本小笠原長門守に仕える。しかし後年、武州赤山の田舎で貧しく暮らしその終わりは詳でない。 義士の遺子(男子)一覧

辞世句

「命にも易(かえ)ぬ一つを失はば逃匿れても此を遁れん」討入り時、兜頭巾の裏に記す。(義人録)

遺言

介錯人に向かい「お手を汚して相すまん。また自分は年寄りであるから不調法があるかも知れませんが、その段何卒宜しくお頼み申します」と会釈をしておもむろに肌を脱いだ。

喜兵衛の出自と経歴など

生年 寛永十七年(1640) 家系 本姓 ・ 藤原氏
没年 元禄十六年二月四日 出身地 播州赤穂
享年 六十二歳 上に記載
戒名 刃有梅剣信士 実母 不詳 五十八年前に病死(親類書による)
養母 加茂宮次兵衛の娘
禄高 二十石五人扶持 ・ 二代 兄弟 義弟 村松半太夫(九太夫義絶行方不知)
弟 木屋孫三郎(町人江戸両国橋辺り在住)
役職 扶持奉行(江戸詰) 親戚 甥 町人 吉三郎
屋敷 江戸藩邸 変名 村松隆円 医者または按摩取りと称する
幼名 不詳 仮寓所 江戸八丁堀本町から本町に移る
性格 誠実な人柄で算用が巧み 討入守備 表門隊突入 吉良邸討入り時の詳細
国長 二尺八寸
脇差 寒広二尺四寸
お預け所 長門長府藩毛利甲斐守綱元
雅号 不詳 切腹場所 長門長府藩毛利甲斐守綱元下屋敷 赤穂四十六士の切腹
妻子 上に記載 介錯人 田上五左衛門
遺言 上に記載 辞世句 上に記載
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼亮
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼定 不参加 萱野重實

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