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赤穂義士 奥田貞右衛門行高の一部始終

赤穂義士のトップペー ジに戻るおくださだえもん ゆきたか

近松勘六の異母弟で 奥田家の養子となる。息子の清十郎は討ち入り一週間前の生まれで貞右衛門はわが子の顔を知らずに逝くが成人して仁尾家の養子となり二百五十石の阿波蜂須賀藩士になっている。

奥田貞右衛門の家紋です
丸の内にすはま
奥田貞右衛門行高の討ち入り姿の銘板です
赤穂市内にある銘板
奥田貞右衛門の家系図です
家系図

貞右衛門の特筆事項

奥田貞右衛門の画像です妻子 息子は二百五十石!

奥田孫太夫の娘
長男 清十郎
討入り一週間前の元禄十五年十二月八日生まれで二歳の時に仁尾官右衛門の養子となりその後、仁尾家を嗣ぎ成人して仁尾孫三郎定勝と名乗り、阿波蜂須賀家に二百五十石で召し抱えられた。 義士の遺子(男子)一覧

泉岳寺への途中で 兄思いの弟

討ち入り後の引き揚げの時、戦いで池に落ちて負傷した兄の近松勘六行重に自分の小袖を着せていたわる姿が見られたという。

遺書 息子を案じて・・・

文良と生母聖光院宛(元禄十五年十二月二日付)で、「此勢州と有脇指正作せんご村正にて御座候よし、此間去上手之目利者見せ申候、此脇差殊外出来よく無類のよし、銘をすりつむし候らえば正宗にも成り可申候。左候はば大莫百枚以上に成可申候。此事承知仕候得共、此節殊外閙舗(さわがしく)不能其儀候、世倅清十郎成人仕り十人なみの生付にて御座候はば御はらひ金子にて成りとも高価にうれ不申候はば、やはり其のまま御置十四五歳にもなり申候はば、御渡し可被下候、それも近年に御はらひ被下候はば金子は少つゝ可被遣下候奉願候」

貞右衛門の出自と経歴など

生年 延宝六年(1678) 家系 本姓 ・ 藤原氏
没年 元禄十六年二月四日 出身地 播州赤穂(近江国野洲説あり)
享年 二十六歳 実父 近松小右衛門行生 ・ 養父 奥田孫太夫重盛
戒名 刃湫跳剣信士 実母 仁尾清右衛門の娘 ・ 養母 寺田九兵衛の娘
禄高 九石三人扶持(無禄説あり) 兄弟 兄 近松勘六
弟 文良(谷中重福寺の僧)
弟 仁尾官右衛門(松平淡路守家臣)
妹 弟の仁尾家に同居
役職 加東郡勘定方(部屋住み説あり) 親戚 省略
屋敷 江戸赤穂藩邸 変名 小四郎(元禄十五年三月頃からの変名) ・ 後 西村丹下(医者)
幼名 小四郎 仮寓所 江戸深川八幡町 ・ 深川黒江
性格 不詳 討入守備 裏門警備 吉良邸討入り時の詳細
高光 二尺四.五寸
脇差 九寸五分
お預け所 三河岡崎藩 水野監物忠之
雅号 不詳 切腹場所 三河岡崎藩 水野監物忠之中屋敷 赤穂四十六士の切腹
妻子 上に記載 介錯人 横山笹右衛門
遺書 上に記載 辞世の句 不詳
赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士) 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士) 赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮 不参加 萱野重實

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