奥田貞右衛門行高(赤穂義士)

切腹時息子の清十郎はわずか二歳だった

おくださだえもん ゆきたか

奥田貞右衛門サムネイル

近松勘六の異母弟

奥田孫大夫の養子となりその娘と夫婦になる。江戸城松の廊下刃傷事件勃発時は二十四歳で加東郡勘定方(部屋住み説有り)を務めていた。

息子の清十郎は討ち入り一週間前の生まれで貞右衛門が切腹した時はわずか二歳だった。この息子は貞右衛門の死後、仁尾官右衛門の養子になり成人して二百五十石取りの阿波蜂須賀藩士になっている。

奥田貞右衛門の家系図

両親と兄弟

実父
  • 近松小右衛門行生
養父
  • 奥田孫太夫重盛
実母
  • 仁尾清右衛門の娘
養母
  • 寺田九兵衛の娘
  • 近松勘六
  • 文良(谷中重福寺の僧)
  • 仁尾官右衛門(松平淡路守家臣)
  • 弟の仁尾家に同居

妻子

丸の内にすはま奥田貞右衛門の家紋

石板:赤穂市内奥田貞右衛門行高の討ち入り姿の銘板

  • 奥田孫太夫の娘
  • 一人息子は二百五十石

  • 討入り一週間前の元禄十五年十二月八日生まれで二歳の時に仁尾官右衛門の養子となる。その後、仁尾家を嗣ぎ成人して仁尾孫三郎定勝と名乗り、阿波蜂須賀家に二百五十石で召し抱えられた
義士の遺子(男子)一覧

泉岳寺への途中で

討ち入り姿奥田貞右衛門討ち入り姿

兄思いの弟

討ち入り後の引き揚げの時、戦いで池に落ちて負傷した兄の近松勘六行重に自分の小袖を着せていたわる姿が見られたという。

遺書

息子を案じて

文良と生母聖光院宛(元禄十五年十二月二日付)
[此勢州と有脇指正作せんご村正にて御座候よし、此間去上手之目利者見せ申候、此脇差殊外出来よく無類のよし、銘をすりつむし候らえば正宗にも成り可申候。左候はば大莫百枚以上に成可申候。

此事承知仕候得共、此節殊外閙舗(さわがしく)不能其儀候、世倅清十郎成人仕り十人なみの生付にて御座候はば御はらひ金子にて成りとも高価にうれ不申候はば、やはり其のまま御置十四五歳にもなり申候はば、御渡し可被下候、それも近年に御はらひ被下候はば金子は少つゝ可被遣下候奉願候]

独り言 息子を見ることなく切腹した二十六歳。討ち入り前に生まれた息子は成人して二百石で阿波蜂須賀家に仕える。部屋住み説もある微禄の青年は愛妻家であったことが遺書からもわかる。覚悟の仇討ちとはいえ、さぞ息子の顔を見たかったであろう。涙

奥田貞右衛門備忘録
生年
  • 延宝六年(1678)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十六歳
戒名
  • 刃湫跳剣信士
幼名
  • 小四郎
雅号
  • 不詳
家系
  • 本姓 ・ 藤原氏
出身
  • 播州赤穂(近江国野洲説あり)
屋敷
  • 江戸赤穂藩邸
役職
  • 加東郡勘定方(部屋住み説あり)
禄高
  • 九石三人扶持(無禄説あり)
仮寓
  • 江戸深川八幡町・深川黒江
変名
  • 小四郎(元禄十五年三月頃)のち西村丹下(医者)
  • 高光 二尺四.五寸
  • 脇差 九寸五分
討入切腹

遺言・辞世の句 共に不詳です

赤穂四十七士と萱野三平

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