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元禄赤穂事件の詳細その5

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永久の別れとなる四大名家への分散収監 四十六士に対する各大名家の処遇、斬罪か名誉の切腹かで揺れる幕府の内幕、四十六士の切腹と遺子の処罰の詳細を記しています。事件は「詳細その1」刃傷事件 「その2」江戸耐乏生活 「その3」吉良討ち入り 「その4」泉岳寺の5部構成です。

赤穂四十六士の切腹が決まる

仙石伯耆守の称賛と分散収監が決まる
四十六士の生別 仙石伯耆守から細川家にお預けの十七人に対し、討入りの様子につきお訊ねがあったと原惣右衛門の「討入り実況報告書」にある。義挙に感激した仙石伯耆守が浪士から討入りの様子を直接聞きたかったのが真で、講談の「十八ヶ条の申し開き」は史実と異なる。

幕府の動向

仙石伯耆守へ自訴した吉田忠左衛門と富森助右衛門より事情聴取した井上万右衛門が「調書」を作成。仙石伯耆守は先ず月番老中稲葉丹後守へ報告して登城し、老中、若年寄、伯耆守で閣僚会議を開き四大名家へのお預けと、処分の内容は後日にすることを決定。かくして四十六士は仙石邸で生別することになる。
義士切腹の画像です学者の意見と綱吉
綱吉の決断で切腹が決まる 幕閣や世論は浪士賛美と同情無罪論の中、学者の意見は二つに分かれる。

浪士賛美(同情無罪論)

林鳳岡(ほうこう)、室鳩巣、三宅観蘭など。

法政論(有罪処罰論)

荻生徂来、太宰春台、佐藤直方 (忠義と法律違反は厳格に区別すべき)

綱吉の決断

湯島に聖堂をおこし、自ら忠孝を説いた綱吉だが、天下の大法を破ったことには躊躇せざるをえず、民意か法律かで悩んだ末、一月二十日過ぎに「切腹申しつけよ」と断を下した。
親類書の提出 切腹の前ぶれ

一月二十二日お預けの四家の留守居役を招き、老中稲葉丹後守からお預け人の「親類書」を提出するよう命じている。親類書は当時の慣例として切腹の前触れであったから、四十六人は勿論、四家でも近く切腹の申し渡しがあると推察した。この資料により正確な戸籍等が分かり、貴重な史料となっている。

名誉の切腹か斬罪か 細やかな配慮

幕府は苦心の末、名誉の切腹の形を取りながら、三宝を通常以上に離して置き半身屈める処を打ち首にした。士礼と斬罪との紙一重のやり方だったとされる。

肥後熊本藩細川家で十七名が切腹

収監先 細川家

藩主

細川越中守綱利(肥後熊本藩五十四万石)
生没寛永二十年(1641)〜正徳四年(1712)、享年七十二歳。義を重んずる家風であり加えて大藩でもあったので浪士の扱いも一番優れていた。落首で「細川の水(水野)の流れは清けれど只大海(甲斐)の沖(隠岐)ぞ濁れる」とあり細川家と水野家の浪士に対する厚遇を讃えている。

世話役

堀内伝右衛門五十八歳で二百五十石。忠誠篤実な人物で「堀内覚書」を残し、十七人の詳細(人物、性向や伝言の取り次ぎや切腹時の遺言などを)書き留め、義士研究の第一級の史料となっている。

浪士引き取り

家老の三宅藤兵衛他八百七十余人が仙石邸に向かい引き取る。十二月十六日午前二時頃に到着し、直後に藩主自ら面会して「いずれも忠義の至り感心である。まことに天命に応ったことだと思う」とねぎらう。

切腹命令書

八ツ刻(午後二時頃)上使荒木・久永が到着し切腹を申し渡す。内容は「浅野内匠儀、勅使御馳走之御用被仰付置、其上時節柄殿中を不憚不届之仕形ニ付御仕置被仰付、吉良上野儀無御構被差置候処、主人あたを報候と申立、内匠家来四十六人致徒党、上野宅江押込、道具抔持参、上野を討候儀始末公儀を不恐候段重々不届候、依之切腹申付者也未二月四日」四家とも大体同じでした。

切腹

時間は一人六分 十七人の居間には生け花が飾られ最後の料理と風呂もたてられ、浅黄無垢の麻裃、黒羽二重の小袖などが渡された。十七人の切腹は午後四時にはじまり午後六時頃に終わる。首実検は最初の二人だけであとは省略され、1時間50分で終えており、所要時間は1人5、6分で四家とも申し合わせたように共通している。
上の間九名(切腹順と介錯人)
大石内蔵助(01馬場一平) 吉田忠左衛門(02富森清太夫) 原惣右衛門(03増田定右衛門)
片岡源五右衛門(04二宮新右衛門) 間瀬久太夫(05本庄喜助) 小野寺十内(06横井儀左衛門)
間喜兵衛(07栗屋平右衛門) 掘部弥兵衛(09米良市右衛門) 早水藤左衛門(12魚住藤右衛門)
下の間八名(切腹順と介錯人)
礒貝十郎左衛門(08吉富五左衛門) 富森助右衛門(10氏家平七) 潮田又之丞(11一宮源四郎)
近松勘六(13横山作之丞) 赤埴源蔵(14中村角太夫) 奥田孫太夫(15藤沢長右衛門)
矢田五郎右衛門(16竹田平太夫) 大石瀬左衛門(17吉田孫四郎) *

葬送の様子

切腹後死骸は桶に入れ、一人ずつ乗り物に乗せて、籠提灯一対、小姓一人、足軽二人ずつを配し、前後を騎馬で固めて泉岳寺へ送られた。また別に十数人を泉岳寺に遣わし待ち受けさせた。

伊予松山藩松平家で十名が切腹

収監先 松平家
松平家家紋

藩主

松平隠岐守定直(伊予松山藩十五万石)
生没は万治三年(1660)一月十九日〜享保五年(1720)十月二十五日、享年六十一歳。

世話役

波賀清太夫朝栄(ともひさ)歩行目付で剣客、気骨のある接待役。大石主税の介錯人をつとめ、お勤め中に聞き書きした「波賀朝栄聞書」は第一級の研究史料。

切腹

時間は一人六分 十名の切腹は午後五時に始まり午後六時頃に終わる。介錯人は浪士二人に一人。
松平家十名(切腹順と介錯人)
大石主税(01波賀清太夫) 堀部安兵衛(02荒川十太夫) 貝賀弥左衛門(03大島半平)
菅谷半之丞(04加藤分左衛門) 木村岡右衛門(05宮原久太夫) 千馬三郎兵衛(06波賀清太夫)
不破数右衛門(07荒木十太夫) 中村勘助(08大島半平) 岡野金右衛門(09加藤分左衛門)
大高源五(10宮原久太夫) * *

葬送の様子

死骸は布団に包み、縄で結び、名付きの札を付けて駕に乗せ、駕一挺毎に白張提灯二張、箱提灯一づつ、棒突足軽五人、持筒一人、十挺同様に裏門から出し泉岳寺へ送り、泉岳寺で引導の後、桶に入れ、土中深く埋めた。

長門長府藩毛利家で十名が切腹

収監先 毛利家
毛利家家紋

藩主

毛利甲斐守綱元(長門長府藩五万石)
第三代藩主で生没は慶安三年(1651)十二月二十三日〜宝永六年(1709)三月一日、享年六十歳。

藩主の接見

十二月二十九日に接見。食事は二汁五菜、昼お菓子、お酒、火鉢も入れ「太平記」などの読み物を読むことが出来た。

切腹

時間は一人六分 切腹刀の代わりに扇を紙に包んだものを十本用意したいわゆる「扇子腹を切らす」つもりでいたが幕府目付に否定され急遽、小脇差しに取り替えられた経緯があり、介錯人は浪士二人に一人で行われた。
毛利家十名(切腹順と介錯人)
勝田新左衛門(01鵜飼惣右衛門) 村松着兵衛(02江波清吉) 武林唯七(03榊正右衛門)
倉橋伝助(04田上五左衛門) 杉野十平次(05進藤猪右衛門) 吉田沢右衛門(06鵜飼惣右衛門)
小野寺幸右衛門(07江波清吉) 前原伊助(08榊正右衛門) 間新六(09田上五右衛門)
岡島八十右衛門(10進藤猪右衛門) * *

葬送の様子

間新六死骸は「秋元但馬守の家来で中堂又助なる者、近き親類たるにより申し受け度く」との申し越しに付き、これを許可。残りの九人は乗り物九挺に入れ、足軽一挺二人宛付け、別に押さえの為、足軽と中間を各五人付けて泉岳寺へ送った。

三河岡崎藩水野家で九名が切腹

収監先 水野家
水野家家紋

藩主

水野監物忠之(三河岡崎藩六万石)
第四代藩主で生没は寛文九年(1669)六月七日〜享保十六年(1731)三月十七日、享年六十三歳。

待遇

大書院を屏風で仕切って預かるように準備したが、身分の軽い者だからと外の戸障子などを釘付けにした長屋に収監される。後に待遇が改善され三田の中屋敷に移し二汁五菜に改め正月には雑煮も出て祝うことが出来た。

切腹

時間は一人六分 切腹刀は刀身を板で挟んで布で包み、切っ先を五分出した小脇差が用意されていて、午後四時に始まり午後五時丁度に終わる。
水野家九名(切腹順と介錯人)
間十次郎(01青山武助) 神崎与五郎(02稲垣左助) 村松三太夫(03広瀬半助)
横川勘平(04山中源七郎) 奥田貞右衛門(05杉野源内) 矢頭右衛門七(06横山笹右衛門)
間瀬孫九郎(07小池権六郎) 茅野和助(08徳山又蔵) 三村次郎左衛門(09田口安右衛門)

葬送の様子

留守居役から手紙で「御預之輩切腹被仰付にて、死骸差し遣わさる可き」旨を申し送り、戌中刻(午後八時頃)泉岳寺より使僧が死骸遣わされ候様と返事に来たので、葬列も厳重に泉岳寺に向かった。

四十六士の戒名と武具のその後

四十六士の戒名

泉岳寺住職の酬山長恩は引導を渡すに当たって、「碧巌録」第四十一「則古徳剣刃上」の公案からとって四十五士全部に「刀」と「剣」を戒名に分けてつける。酬山は間新六だけが一人欠けているのを残念に思って毛利家の列に同じように土饅頭を作り法号を授けた。

四十六士の遺品 売却される

義士達の遺物などは全て泉岳寺へ納められたが刀や脇差、槍などの諸道具を寺が売り立てたと聞いた堀内伝右衛門(細川家で親身に義士の世話をした人)は「神かけてそんなことはないだろう」と言ったが、事実であったようで残念でならないと「堀内伝右衛門覚書」に書いている。

四十六士の遺子の処罰とその後

赤穂義士の遺子

四人が伊豆大島へ流刑 旧幕時代まで「三族連座制(父母・兄弟・妻子)」があったが元禄の頃には弛み、男子の遺族だけが罰せられ、妻と女子及び僧籍にある男子は免除された。四十六士の十九遺児のうち流刑に該当する十五歳以上の男子は四人で十四歳未満の男子(十五名)は十五歳まで刑は猶予された。

十五歳未満の男子遺子十五名一覧
大石吉千代十三歳(大石良雄次男) 大石大三郎二歳(大石良雄三男) 片岡新六十二歳(片岡高房長男)
片岡六之助九歳(片岡高房次男) 原十次郎五歳(原元辰長男) 矢田作十郎九歳(矢田助武長男)
富森長太郎二歳(富森正因長男) 不破大五郎六歳(不破正種長男) 中村勘次五歳(中村正辰次男)
木村惣十郎九歳(木村貞行長男) 大岡次郎四郎八歳(木村貞行次男) 茅野猪之吉四歳(茅野常成長男
奥田清十郎二歳(奥田行高長男) 岡島藤松十歳(岡島常樹長男) 岡島五之助七歳(岡島常樹次男)
流刑者四人のその後義士遺児の画像です
四人の配流地は伊豆大島。元禄十六年(1703)四月二十七日四人は佃島の岸で御舟奉行の小笠原彦太夫に引き渡されて四月二十九日頃大島へたどり着いた。流人の持ち込める限度は士分で米二十俵、金札で二十両以内であった。吉田伝内、間瀬左太八、中村忠三郎は本多家や松平家の好意で米十九俵と金十九両が贈られたが、木村政右衛門は小笠原家から米二俵と金四両だけしか貰えなかった。

間瀬左太八(定八・貞八)

間瀬久太夫次男二十歳、姫路亀山在住で元禄十六年四月九日島送りの為江戸に護送され揚屋に収監され、宝永二年四月二十七日に大島で病没する。享年二十二歳、戒名は「月山祖潭信士」。大島元村(現大島町元町)下村家墓地に埋葬され墓が現存する。名前について、自筆の手紙では左太八と署名、父親の親類書は定八、兄の孫九郎の親類書は佐太八とある。

吉田伝内

吉田忠左衛門次男、僧侶になることを条件に宝永三年九月十六日に遠島が許され、本多家からは寺坂吉右衛門を迎えに出した。江戸小石川関口町の洞雲寺で得度して名を恵学と改め十月の末、本多家の転封地の越後村上の永昌寺で修業に入る。宝永六年(1709)正月十日綱吉他界に伴い還俗する。吉田忠太夫兼直と名乗り本多家の客分扱いになった。

村松政右衛門

村松喜兵衛次男二十三歳、僧侶になることで流罪が許され、江戸洞雲寺で剃刀を当て無染と名を改める。恩赦で武士に戻り小笠原家に返り咲くが何故か後年、武州赤山の田舎で貧しく暮らしその終わりは詳でない。

中村忠三郎

中村勘助嫡子十五歳、奥州白河の松平大和守直矩家臣で伯父に当たる三田村十郎太夫方に母と共に居たところを収監されて伊豆大島へ。桂昌院殿御法事により赦免されて宝永三年九月に江戸に着き母たちの待つ奥州白河に帰り、赦免の条件通り僧籍に身を置いた筈だがその後は不明。「寺坂筆記」には三年後に死んだとある。
元禄赤穂事件関連ページ

事件の年譜 刃傷事件・赤穂開城(その1) 山科隠棲・江戸下向(その2) 困窮生活・討ち入り(その3) 泉岳寺・切腹・遺族(その4) 事件の詳細 刃傷事件・内匠頭切腹(その1) 赤穂開城・仇討ち準備(その2) 吉良邸討入り(その3) 引き揚げ・泉岳寺(その4) 切腹・遺子の処罰(その5) 赤穂城・浅野家・吉良家 赤穂城古写真など 浅野内匠頭長矩 吉良上野介義央

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