四十七人の浪士は家老から台所役人、足軽まで身分はさまざま。苦難に耐えて武士の面目に殉じた四十七士は今なお、日本人の心をゆさぶり続けます。
浅野内匠頭の刃傷事件から吉良邸討ち入りを経て四十六士の切腹に至る経緯、ただ一人の生き残り寺坂吉右衛門のこと。仮名手本忠臣蔵の誕生と果たした役割も記しています。
浅野内匠頭切腹
元禄十四年(1701)三月十四日は将軍綱吉が朝廷からの使者に勅答する大切な日。勅使接待役の浅野内匠頭がご法度の刃傷事件を江戸城内で起こした事に将軍綱吉は激怒、徳川家始祖以来の不文律、喧嘩両成敗を忘れます。
その結果、浅野内匠頭には「即日の切腹」を、吉良上野介には応戦をしていないことを理由に「お構いなし」を短慮に即断しました。
浅野内匠頭の切腹は五万石の大名の扱いではなく罪人の扱いで、酒や煙草も許されず、遺言を書くことも、切腹のときに自分の刀を使うことも許されませんでした。この不公平な裁きが日本三大仇討ち事件の一つ「赤穂事件」の端緒となりました。大石内蔵助木像
大石内蔵助は吉良上野介の処罰(喧嘩両成敗)を訴えつつ、浅野家の再興を第一に据え、あらゆるツテを使い莫大な資金を使ってお家再興を画策しているなか、閉門中の浅野内匠頭の実弟浅野大學長廣が広島浅野本家に差し置きと決まったことでお家再興の望みを断たれます。
京都山科と江戸間の意志の疎通は人を派遣(十二日前後)するか、飛脚による手紙だけの時代を考えると大石内蔵助の心労はいかばかりか、橦木町での遊興の時期と重なるのは単なる偶然なのか。
大石内蔵助にとりこの時期は家族との別れ、遊郭での遊興、お軽との出合いと別れ、円山会議での討入りの決定などがあり、二度と帰ることのない江戸への出発がありました。各地で仮住まいしていた赤穂浪士達も仇討ちのためにそれぞれ江戸に向かいます。
大石主税討ち入り姿
討ち入り資金とした瑤泉院(浅野内匠頭夫人)の化粧料の六百九十両(7000万円弱)が底をつく直前に吉良邸で茶会が開かれることを聞き込み、複数の情報源から間違いない事を確認して十二月十四日の討ち入りが決まります。
討ち入りは表門と裏門の二隊に別れて突入しますが、四十七人の年齢や親子兄弟、武術の練達度などを基準に絶妙に振り分けられています。また装束、武具、近所への対応、負傷した仲間の扱い、泉岳寺への道順や隊列、幕府への自訴など細かく決められていて見事です。
吉良上野介の首と証拠のお守り袋は上野介の白小袖に包んで泉岳寺に帯同し主君の墓前に供えますが、★遺骸は吉良上野介の寝所に運んで布団に寝かせ、屋敷内のロウソクなどの火を全部消して引き揚げるなど後始末も見事でした。
神文誓紙の手前、父親に仇討ちの企てを話せず、事情を知らない父の再仕官の勧めとの板挟みになったのが動機でした。忠臣蔵のふるさと赤穂市の大石神社には四十七士と並び人神として祀られています。
浅野内匠頭の切腹は即日を短慮に決めた将軍綱吉でしたが、★赤穂浪士に対する世論は賛美一辺倒、幕閣は忠義の士を生かしてやりたい、学者は有罪無罪両論があるなか、ついに綱吉は決断して二月四日の切腹が決まります。
切腹は四大名家とも申し合わせたように一人5、6分と信じられない手際で進み、遺骸を桶に入れてその日のうちに泉岳寺に送り主君の墓域に埋葬されました。
寺坂吉右衛門は大石内蔵助ら幹部のかねての申し合わせの通り、泉岳寺までの間に隊列を離れ、その年の年末には故郷の姫路に戻っています。残された遺子の処罰なども記していますのでご覧ください。
翌年には江戸の森田座でも歌舞伎で初演されて以後、歌舞伎界の「独参湯」(気付け薬)と称され、その上演回数は幕末までに100回を越えるまでになります。
初演当時には四十七士が忠臣であるとの評価が定着していたこともあって赤穂浪士による復讐事件を「忠臣蔵」と呼ぶようになります。
また、その人気ゆえに実録と虚構が交錯した事柄も多く、史実探求をより困難にしている側面もあるようです。尚、外題の仮名手本は当時寺子屋で使われた教科書を指したことから忠臣の鑑(教科書)を意味する説のほか諸説があるようです。
赤穂浪士とは?の頁へようこそ! (C) 2011 tadeho48