間新六光風(赤穂義士)

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間新六

はざましんろく みつかぜ

新六郎とも呼ばれた光風は幼くして百五十石で船奉行の里村家の養子となる。
しかし養父との折り合いが悪く、刃傷事件勃発当時は浪人となり姉の嫁ぎ先の江戸で居候をしていた為、義盟に加わるのに苦労している。

家族・家系図・家紋

間家系図間家家系図

三階松間家の家紋

討ち入り姿間新六討ち入り姿

実父

養父の里村津右衛門

津右衛門は間喜兵衛の従弟。赤穂藩舟奉行で百五十石の家柄。養父との折り合いが悪く離縁して実家に帰ろうとするが実父が許さないので、刃傷事件当時は姉の嫁ぎ先である江戸の秋元但馬守家臣中堂又助宅に身を寄せていた。

預け先 長門府中藩毛利家

切腹のとき 実際に腹を切る

江戸時代の切腹は腹切りは行わず形骸化していたが、四十六士中ただ一人肌も脱がずいきなり、三宝の脇差を取って腹に突き立てた。
[間新六は肌を不脱前に三宝を載、脇差をとり、腹に突立候なり。御目付衆の見及も腹につき立てたると見給ふ故に、御小人目付を以て見せられ候所に、もはや桶に入候を取出し見候へば、腹に突立、六七寸程引まはし候也]とある。

泉岳寺に遺骸がない

姉婿の中堂又助から新六の遺骸を引き取りたいとの申し出があり、引き取られ筑地本願寺境内に葬られる(現中央区筑地三丁目)従って泉岳寺には彼の遺骸だけがない。
このことを残念に思った泉岳寺の住職酬山和尚は毛利家で切腹した十人の列に土饅頭をつくり法号を付した。遺髪のみで後世に分骨されたという。

預け先 長門府中藩毛利家

泉岳寺の墓

間十次郎の墓泉岳寺:間新六(戻る)

市内石板間新六郎の石板

戒名

刃模唯剣信士

遺言

不詳です

国助 二尺二寸 脇差 同作 尺不明

辞世の句

[思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを]
間光風備忘録
生年
  • 延宝八年(1664)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十三歳(二十四歳説あり)
戒名
  • 筑地本願寺 帰真釈宗貞信士
幼名
  • 不詳
雅号
  • 不詳
妻子
  • 独身
変名
  • 杣庄(そましょう)新六・仮名手本:矢間新六光風
家系
  • 本姓・藤原氏
出身
  • 播州赤穂
屋敷
  • 江戸藩邸
役職
  • 浪人(部屋住み説有)
禄高
  • 無禄
仮寓
  • 江戸に住む中堂又助邸に居候後、江戸新麹町四丁目大屋七郎右衛門店に父兄と同居
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

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