赤穂義士 岡島八十右衛門常樹

おかじまやそえもん つねき岡島八十右衛門サムネイル
原惣右衛門の実弟 岡島家に養子に入り札座勘定奉行を務めていて刃傷事件に遭遇する。

赤穂城の開城に際し、札座奉行として藩札の交換などに手腕を発揮、討ち入り前日の手紙が残されています。

親族と家族・屋敷跡・家紋・手紙・遺族

岡島八十衛門の家系図親族と妻子
  • 実父 原七郎左衛門定八
  • 養父 岡島善右衛門
  • 実母 和田将監帯刀の娘
  • 養母 吉田助兵衛の娘(長矩家臣)
兄弟
  • 実兄 原惣右衛門
  • 実兄 和田喜六(浪人大坂在住)
  • 親戚吉田忠左衛門 貝賀弥左衛門(実母筋の伯父甥)
  • 元文二年九月三日没 六十四歳 戒名は修善院妙徳日意信女 墓は赤穂高光寺
長男
  • 藤松(切腹時十歳)
次男
  • 五之助(切腹時七歳)
  • お園 享保二十年六月二十一日没 三十六歳(切腹時四歳) 龍野如来寺墓地 戒名は西林院華英盛香信女
屋敷跡の説明板

場所を確認岡島八十右衛門宅地跡案内板

家紋:剣かたばみ岡島家家紋

原惣右衛門の実弟で、岡嶋善右衛門の養子となり、岡嶋家を継いだ。

兄に似て清廉剛直の士であった。札座勘定奉行として、赤穂城開城の際には、藩札引換えの仕事に従事し、藩金の配分にもあたった。

ところが、大野九郎兵衛知房が、八十右衛門に金銭上の不正があるかに触れ廻ったため、この事を知った八十右衛門が、激怒し大野宅へ押しかけたので、九郎兵衛は恐れをなし逐電してしまった。

八十右衛門は、兄惣右衛門とともに早くから義盟に加わった。討ち入りに当たっては、表門隊に属し、武林唯七らとともに屋内に突入して戦った。なお赤穂城明渡しに際して「赤穂城引渡覚書」を遺している。詳細で、赤穂側の実務者の記録として貴重である。 赤穂義士会(転載)

開城準備とトラブル

石板:赤穂市内岡島八十右衛門石板

家老が夜逃げする 刃傷事件後も赤穂城内に残り勘定奉行として藩札の引き換えにあたる。藩札引き換え中に公金持ち逃げの不届き者が現れ、家老の大野九郎兵衛になじられたのを怒った常樹は大野の屋敷へ押しかけ、それが原因で大野親子が夜逃げした説がある。

開城後の動向

京都で病に臥す 大石内蔵助良雄から江戸下向を依頼されるが果たせず神崎与五郎が代わって東下することになる。これが原因で一時、討入りの真意を疑われることになるが元禄十五年十月に貝賀弥左衛門間喜兵衛、原惣右衛門と東下し初志を貫徹した。

手紙 妻子への名残・・・岡島八十右衛門討ち入り姿
郷里の前川弥四郎、八木新十朗宛に十二月十三日付

「此度之義兼ねて存立之事、申合候者共難止、右之通に候。其許妻子共及難儀可申義と不便に存候、思入候迄御心易申通万事残念之事共難尽筆紙候。其許之儀見苦敷無之様に万事御心附可被下候」と依頼している。

切腹後の家族 再婚と離縁

元禄十六年当時妻は三人の子と共に赤穂にいた後、中村善右衛門と再婚し、娘のお園は広島の堀尾恒年に嫁して一女をもうけたが離婚して赤穂の中村家に帰り善右衛門の養女として龍野の田中九郎兵衛に再嫁し三男の母となっている。

辞世の句・遺言・雅号・刀など

岡島八十右衛門備忘録
生年
  • 寛文六年(1666)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 三十八歳
戒名
  • 刃袖払剣信士
幼名
  • 不詳
性格
  • 兄弟共に清廉剛直な性格
家系
  • 本姓は藤原氏
  • 讃岐高松の生駒家家臣の出で浪人後浅野家に仕えた
出身
  • 不詳
役職
  • 札座勘定奉行(藩札及び現金の管理など)
禄高
  • 二十石五人扶持・二代
屋敷
  • 赤穂城下
仮寓
  • 江戸新麹町四丁目和泉屋方
変名
  • 郡 武八郎・岡嶋弥左衛門常樹(仮名手本)
  • 共国 二尺八寸
  • 脇差 一尺四寸
討入切腹
雅号
  • 不詳
遺言
  • 辞世の句ともに不詳
赤穂四十七士と萱野三平

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