世才にも長けて浪人するとすぐに古着屋を開き、吉良側の情報収集を開始しますが生活は苦しく大石内蔵助の金銀請払帳には金二分の借用が記録に残っています。また、神文の提出も大高源吾より早かったことが源吾から堀部安兵衛宛の書状で分かっています。
前原家系図
いちじく
浪人直後から吉良邸に程近い日本橋富沢町で古着屋を開業する。武士が商売を始めたのである。よほど商才に長けていたのか復讐心がより強固だった故なのか。
吉良上野介が八月に屋敷替えを命じられ本所に移ったときには店を吉良邸裏門そばの本所相生町に移し、呉服店を開き探索を継続している。のち、神崎与五郎が麻布谷町で開いていた店(米穀商)と合同して探索を続け情報の収集に大いに貢献した。
討ち入り姿
本書は元禄十五年(1702)に東武本所で成り、構成は前原伊助の「国難始末」と神崎与五郎の「絶纓自解」とを併せたもので偵察の合間をぬって著し実に吉良邸討ち入りの1か月前で終わっています。尚、これにつき大石内蔵助・小野寺十内は満足せぬ点があり、信を置き難しと評している。赤穂義士事典
市内の石板
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