血族の義士多数
間瀬家系図
右三ツ巴
討ち入り姿
父
母
弟
妹
多川九左衛門を非難
収城目付に吉良上野介の処分(喧嘩両成敗)を願い嘆願使として江戸に派遣された人物。結果は道中で行き違いになり役目を果たせずに終り無能よばわりされ、非難される。
室鳩巣は「義人録」の中で「多川・月岡是に於て使命を辱しむという可し、赤穂材なきに非ざる也。吉田・小野寺の練達あり、富森・神崎の勇幹あり。その他原・間・大高の徒皆選也。良雄(大石内蔵助のこと)是に於て人を知らずと云うべし」と述べている。
斎藤茂先生反論
「赤穂義士実纂」の中で「何をか言わんやと申し上げたい。しかも多川九左衛門は小野寺(父子)・大高・岡野・間瀬・中村の義士達の一族である」と。
仇討ちまで
京都円山会議にも父とともに出席し、復讐が一決されるや九月二日、吉田沢右衛門、不破数右衛門とともに江戸に下り中村勘助、岡島八十右衛門、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門の五士と同居し、偵察にあたった。赤穂義士の中に親戚が多く五名を数える。
性格
優しい心の持ち主であったが、部屋住みにも拘わらず、開城時から義盟に加わり京都の円山会議にも父親と出席している。
預け先 三河岡崎藩水野家
泉岳寺の墓
間瀬孫九郎の墓
市内の石板
戒名
刃太及剣信士
遺言
不詳です
辞世の句
不詳です
刀
不明です