間瀬孫九郎正辰(赤穂義士)

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間瀬孫九郎

ませまごくろう まさとき

間瀬久太夫の長男

刃傷事件勃発時は二十一歳、部屋住みの身分であったが、赤穂城中の義盟に加わる。六月には父と共に赤穂を去り加東郡に仮寓しながら時機が至るのを待ち、山科における連判にも加わる。

血族の義士多数

間瀬家系図多川一族家系図(戻る)

右三ツ巴間瀬家家紋

討ち入り姿吉良邸討ち入り姿

多川九左衛門を非難

収城目付に吉良上野介の処分(喧嘩両成敗)を願い嘆願使として江戸に派遣された人物。結果は道中で行き違いになり役目を果たせずに終り無能よばわりされ、非難される。

室鳩巣は「義人録」の中で「多川・月岡是に於て使命を辱しむという可し、赤穂材なきに非ざる也。吉田・小野寺の練達あり、富森・神崎の勇幹あり。その他原・間・大高の徒皆選也。良雄(大石内蔵助のこと)是に於て人を知らずと云うべし」と述べている。

斎藤茂先生反論

「赤穂義士実纂」の中で「何をか言わんやと申し上げたい。しかも多川九左衛門は小野寺(父子)・大高・岡野・間瀬・中村の義士達の一族である」と。

仇討ちまで

京都円山会議にも父とともに出席し、復讐が一決されるや九月二日、吉田沢右衛門、不破数右衛門とともに江戸に下り中村勘助、岡島八十右衛門、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門の五士と同居し、偵察にあたった。赤穂義士の中に親戚が多く五名を数える。

性格

優しい心の持ち主であったが、部屋住みにも拘わらず、開城時から義盟に加わり京都の円山会議にも父親と出席している。

預け先 三河岡崎藩水野家

泉岳寺の墓

間瀬孫九郎の墓泉岳寺:間瀬孫九郎(戻る)

市内の石板間瀬孫九郎の石板

戒名

刃太及剣信士

遺言

不詳です

辞世の句

不詳です

不明です
間瀬孫九郎備忘録
生年
  • 天和元年(1681)
没年
  • 元禄十六年二月四日
享年
  • 二十三歳
雅号
  • 不詳
妻子
  • 独身
性格
  • 特筆事項に記載
変名
  • 三橋小一郎
家系
  • 本姓・紀氏
出身
  • 不詳
屋敷
  • 赤穂城三の丸
役職
  • 部屋住み
禄高
  • 無禄
仮寓
  • 開城後六月に加東郡に仮寓・江戸新麹町四丁目和泉屋五郎兵衛店
討入切腹

赤穂四十七士と萱野三平

表門隊(23士)大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹 岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
裏門隊(24士)赤埴重賢 礒貝正久 潮田高教 大石良金 大石信清 奥田行高 小野寺秀和 茅野常成 木村貞行 倉橋武幸 菅谷政利 杉野次房 千馬光忠 寺坂信行 中村正辰 間光延 間光風 不破正種 堀部武庸 前原宗房 間瀬正辰 三村包常 村松高直 吉田兼亮
不参加萱野重實

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